言葉は、いずれ死にゆく

前回「風の坂道」という記事を書きました。

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突然ですが、質問です。

この記事、読んでいて、どこか「違和感」を感じませんでしたか?

はい、感じた方は鋭いですね。

素晴らしい。

メタ・ミステリ好きな方は気づきやすいと思いますね。

では、その違和感の正体は何でしょうか?

「です・ます調」と「だ・である調」の違い?

いえ、それは「過去の日記(ですます調)」と「現在」を対比するためにそうしただけです。

もっと、根本的なところです。

分かりませんか?

一つ、ヒントを差し上げましょう。

実はこの記事、前々回の「なぜ、そして、なぜならば」からのスピンアウトなのです。

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「一つの事象には、無数の事実が重なり合っている」という内容の記事でしたよね。

その事例の一つとして「風の坂道」の歌詞を書くはずだったのですが…

あまりに記事が長くなりすぎたため、一つの記事としてスピンアウトした、という訳です。

その文脈で考えると、「違和感」の正体がわかってくると思います。

本日の記事では、これについてお話ししようと思います。

ゲーム・サブスク(PS PLUS)について

ホント、いい時代になったよな~

私もおっさん化が進行したせいか(笑)、しみじみ実感する事が多いですね。

所謂サブスク・サービスもその一つ。

音楽、ゲーム、映画、書籍…

様々なコンテンツが、わずかな定額料金を支払うだけで利用し放題になる。

いや、夢のようなサービスです。

私が子供のころなんてねぇ、あなた。

半年以上コツコツ小遣い貯めて、やっと一本ゲームソフトを買うのが精一杯だったんですよ。

悪魔城伝説」すげぇ欲しい!でも「ファミコン探偵俱楽部・後ろに立つ少女」も捨てがたいんだよなぁ。

じゃあお前、悪魔城伝説買えよ。俺、ファミコン探偵倶楽部買うから、クリアしたら交換しようぜ!

よっしゃ!

こんな感じで「限られたリソースで如何に効用を最大化するか」をみんなで考えていました。

…よくよく考えると「ファミコン探偵倶楽部」はディスクなので(500円で書き換えできる)、等価交換になってないのですが^^;

まあ、そこはよいでしょう。

言いたいのは「ゲームソフト一本」の重みが、今とは全然違う、という事です。

これでクソゲーでも掴まされた日には、堪ったもんじゃありません。

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伝説のクソゲー星をみるひと

ゲームバランス崩壊「港のトレイジア」

いずれも「タイトル&ジャケ買い」で失敗したクソゲー達です。

今みたいにグーグル先生が検索一発でレビュー見せてくれるような時代じゃなかったんですね。

「タイトル」と「ジャケット」から感じる「イマジネーション」だけを武器に、宝探しをするわけです。

私の「イマジネーション買い」は結構当たる方で、たくさんの佳作を発掘してきたのですが…

たま~に「ジャケットだけは良い」系のクソゲーを引き当ててしまうのです。

なんだよこれ~。ゲームとして成立してないじゃん!

それでも、必死に楽しもうと頑張りましたね(笑)

極悪なゲームバランスを「リアリティ」と解釈して。

説明不足のストーリーを「想像力」で補って。

クソゲーという漆黒の中に一筋の光明を見出し、そこをしゃぶり尽くす。

なんせ、半年分の小遣いですから(笑)

今となっては、いい思い出です。

同世代のゲーマーと会うと、クソゲー談義が盛り上がりますしね。

自然と仲間意識が生まれます。

そう考えると、今のサブスク世代は可哀そうだな。

クソゲーなんか無理にプレイしなくても、いくらでも代わりのゲームはある。

下手したら「ちょっととっつきが悪い」というだけで、良作を除外してしまう。

現に私がそうなっています。

少し前にPS・PLUSというサブスクに加入したのですが、10分ほどプレイして少しでもとっつき悪さを感じると「はい、次、次!」となっちゃうんですね。

いくらでも代わりのゲームはありますから。

次から次に「表面だけ撫で」て、少しでも「ざらつき」を感じたら即アウト、みたいな感覚です。

有限性を失ったら、こうなっちゃうんだろうな。

音楽サブスクでも、同じことを感じる

最近、Amazon Music Unlimitedの無料体験を試してみたのですが…

これまた、おったまげ 。

ど~せ、メジャーどころしか入ってないんだろ

いやいや、とんでもございません。

私は70年代のユーロピアン・ロックが大好物なのですが、往年の名盤の数々が、全部入ってるんですよ。

若かりし頃、苦労して買い集めた数百枚のCD、レコード・コレクション。

写真は、その一部です。

ちなみに、壁がボコボコなのは、自分で塗ったからです。

欧州(ラテン系)っぽくしたつもり(笑)

交通費等含めると、コレクションに200万円くらいは掛けたのではないでしょうか。

それが、月千円くらいで聞き放題なんですよ。

いや~、本当にいい時代です。

当時はネットなんて、ありませんでしたからね。

こういった重い本をリュックに詰めて、深夜高速バスで「買い出し」に向かうのです。

政令指定都市を中心に全国を回りましたが、やはり総本山は新宿です。

ディスクユニオン新宿店。

ガーデン・シェッド。

この2店が圧倒的です。

特にガーデンシェッドは、辺境(ポーランド等)の土着トラッドも充実していました。

一枚一枚に、店主が紹介文を書き込んでくれていてね。

これと、持参した本、そしてジャケットから感じる「イマジネーション(笑)」だけを頼りに、音を想像し、選んでいくわけです。

もう、必死でしたね。

小遣いと、昼飯抜いて貯めた金が掛かっているんですから。

2~3時間くらい悩みに悩んで、選び抜いた数枚のCD。

薄暗い雑居ビルを出ると、いつも黄昏時だったな。

宿泊は決まって、今は亡きグリーンプラザ新宿のカプセル。

サウナでくつろいだ後、ドキドキしながらポータブル・プレーヤーで視聴します。

想像を超える美旋律が聞こえてくると、狭いカプセルでガッツポーズ(笑)

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これなんか、最高だったな。

邦題は「子供達の国」

その名の通り、概念の輪郭がまだ分化していない、少年時代のたゆたうような幻想性に満ちたアルバムです。

牧歌的な美しさを持ちながらも、どこか「通りの神秘と憂鬱」を思わせる、不気味な静寂、違和感も感じる。

70年代という、多くの才能がアングラ(含ロック)に集中した奇跡の時代だからこそ生まれた傑作だと思います。

私だけの、宝物のようなアルバム。

…のはずが、これもフツーにAmazon Musicで聴けるんですね_| ̄|○

いやはや、すごい時代だわ。

ただ、音楽サブスクでも、ゲームサブスクと同じ現象が発生しましたね。

少しでも「とっつき悪さ」を感じると「はい、次、次!」になる現象です。

最近の曲は、イントロも短くなりつつある、とも聞きますよね。

「はい、次、次!」になる前に「美味しいフレーズ」を聞かせる必要があるんでしょう。

ユーロ・ロックなんか、下手したら前奏30分くらいあるからなぁ(笑)

しかも「美味しさ」が分かるまでには、何十回も聞かないといけない。

今の時代には、こういう音楽は生き残れませんね。

残念ながら。

そして、真相

おいおい!「違和感」の正体はどうなったんだよ。関係ない話ばっかりしやがって。

はいはい、失礼いたしました。

では「真相」をお話しましょう。

「ゲーム」と「音楽」

この二つのお話を読んで、やはり違和感を感じませんでしたか?

はい、そうですね。

接続詞が妙に少ない。

しかし、にもかかわらず、とはいえ、であるならば、なぜ、なぜならば。

いつもの私の記事には、こういった接続詞が大量に使われています。

にもかかわらず、前項の二つのお話には、異常に接続詞が少ない。

これは、どういうことか。

同じことは「風の坂道」にも言えます。

記事を読んでいただけると分かりますが、接続詞が妙に少ない。

では、接続詞が少ない、とは何を意味するのか。

そうですね。

ロジックで固めていない、という事です。

なぜロジックで固める必要がないか。

それは、これらのお話が「共感」をベースに成り立っているからです。

共感は「体験」や「思い出」を共有することで発生します。

・少年時代、限られた小遣いで、どのゲーム(音楽CD)を買おうか悩んだ経験

・楽しみにしているゲームの発売日に向け、頑張って小遣いを貯めた経験

・友達とゲームを貸し借りした経験

・高速バスで、大都市へ買い物に言った経験

ジャケ買いに失敗して、泣いた経験

誰もがこのような、身体性に基づく経験、思い出があるはずです。

こういった「共通の経験」をベースにして文章を書くと、ロジックなんかなくとも、成立するのです。

言葉が「生きている」からです。

「風の坂道」にしても、同じ事が言えます。

・すべては、移り変わってゆく

・人生には、必ず終わりが訪れる

・だからこそ、かけがえのない人生

こういった認識は、誰もが共有しているはずです。

共通認識をベースにしているから、ロジックで固めずとも、お話として成立している。

対して、私の他の記事は「共通認識」「体験の共有」をベースにしていません。

つまり「共感」を得ることが出来ない。

むしろ「反感」「不快感」を感じるはず。

当然ですね。

この世界を成立させている「共通認識」を、逆に破壊(相対化)しているのですから。

共感を得られぬ言葉。

死んだ言葉。

だから、ロジックでガッチリ固める必要がある。

さもなくば、腐敗した歯が抜け落ちるが如く、壊死した言葉はバラバラに砕けてしまうでしょう。

さて。

では、今回お話しした「ゲーム」「音楽」の文章。

これの余命は、如何ほどでしょうか。

そう長くはないでしょう。

なぜならば「共感」のベースになっている「共通の経験、思い出」が消えつつあるからです。

サブスク、ですね。

小遣いを貯めてゲームを買う経験も、友達同士で貸し借りする経験も、深夜バスで買い出しに行く経験も。

すべて「老害の昔話」になってゆくでしょう。

15年ほど前でしょうか。

バイト先の高校生と音楽CDの話をしていた時の事。

「え!?CDなんか、わざわざお金出して買ってんの!?ファイル共有ソフトでいくらでも落とせるのに」

そう、言われたことがあります。

当時から、もう「そういう時代」は始まっていたのでしょうね。

「共感」がなくなれば、言葉は死にます。

であれば、ロジックで固める必要があるでしょう。

当時はサブスクがなくて、よって、小遣いをやりくりする必要があって…と。

「風の坂道」についても、そう。

AIの登場により、人間の有限性が大きく拡張されようとしています。

自分の生き写しのようなデジタル・ヒューマンが、自分以上に自分らしく喋り、文章を書く。

少なくとも第三者的には「死」は存在しなくなる。

こうなると「人生の有限性」という共通認識も、次第に失われてゆくでしょう。

今現在、全人類の共通認識とも言えるものが失われようとしている。

つまり言葉を「生かして」いる、一番の根本部分が消える。

必然、「言葉」の形も、大きく変わっていくことになるのではないでしょうか。

共感が消え、ロジックが主体になっていく。

今の論破ブームは、その兆候かも知れませんね。

 

「風の坂道」 

この記事の余命は、どれだけでしょうか。

「無常」「人生の有限性」

この二つへの共感によって、この記事は成り立っています。

言葉が死んで、砂のように崩れ落ちる時が、いずれ来るのでしょう。

そう、すべては移り変わってゆくのですから。