近頃、新しいエリアを配達する事が多い。
所謂「通区訓練」だ。
自身を多能化し、汎用性を高める。
歯車たる労働者にとって、当然の責務である。
とは言え、新しいエリアを開拓していく事は楽しいものだ。
地図を片手に、生まれて初めて通る路地裏を右往左往。
中には「こんなところ、バイクで走るのかよ」と思う様な細い路地もある。
畑で作業するお婆ちゃん。
お昼御飯を支度する音、匂い。
古いお寺へと続く、乾いた坂道。
あ、こんなところに猫がいる。
ありふれた日常の一コマが、彩度を増して感じられる。
僕は「通区」が好きだ。
昔の日記
なんだか「新米配達員」だったころが懐かしくなり、かつて付けていた日記を久しぶりに開いてみた。
当時流行っていたmixi。
一部引用する。
配達の途中、赤とんぼが一匹。
黄金色に実った水田の上を飛んでいました。あ!写真とってミクシー載せなきゃ!って思った俺は、立派なミクシー中毒者です(笑)
お婆ちゃんに連れられて、トコトコ歩いた散歩道。
中学時代は、自転車で通った通学路。
その道を、今日は赤バイクで走り抜けます。すこし色づき始めた並木の桜は、あの頃と同じように俺を迎えてくれました。
ちょっとセンチメンタルな気分に浸りつつ、俺はあの頃の三倍のスピードで走り抜けていきます。
日付は2005年の秋。
27歳だった、僕の日記だ。
当時僕は、生まれ育った地元の街で配達していた。
記事中の「道」とは、実家の傍にある川沿いの堤防道。
桜の並木があり、散歩するには丁度良い道なのだ。
木々の間からは中学校が見え、生徒たちの部活動の掛け声が聞こえてくる。
お婆ちゃんと手を繋いで歩いた「散歩道」
中学時代には自転車で通った「通学路」
そして今は、配達員としてバイクで走る「仕事の道」
一つの「道」が、自分とともに「成長」していく。
通り抜けるスピードも、とことこ歩きからバイクへと「成長」してゆく。
それが嬉しかったのだろう。
自身の「成長」を「移り変わる道」と「スピード」に重ねて、稚拙ながら精一杯表現しようとしている。
当時の心境が垣間見れて、なんだか微笑ましい。
風の坂道
小田和正が「風の坂道」という曲を発表したのは、93年。
僕は中学生だった。
「MY HOME TOWN」という地味なアルバム(あまり売れなかったと記憶している)の片隅に収められていた曲である。
初めて聞いたときは、度肝を抜かれた。
美しいイントロ、静謐と力強さを併せ持ったメロディー、劇的かつ自然な転調(大サビにおけるD♭→B♭への戻りは超カッコいい)。
しかし、最も印象深いのは歌詞だ。
この歌詞についても、かつて日記に書いている。
日付は2006年秋。
表題は「風の坂道」
小田和正が俺の神になったきっかけは、「風の坂道」という曲でした。
この曲の中にね、こんな一節があるんです。
愛という言葉を 初めて語ってから
このまま流されては
生きてゆけないと誓った
こうしてこの時が続けばと願ってから
人生はやがて確かに 終わると感じたありふれた日々が 輝いてゆく
ありふれた今が 思い出に変わる
誰のものでも 誰のためでもない
かけがえの無い この僕の人生
この曲がでた当時、僕は中学生。ここでは改めて書きませんが、僕にとってとても辛い時期でした。この曲を聴いたとき、僕は物凄い衝撃を受けました。「励まされた」などどいう生易しいものでなく、なにか魂が揺さぶられ、共振するような感じ。
この曲は俺の曲だ!そう直感したんです。
「辛いときもあるけど、いつか輝くときがある」から人生は素晴らしい、という曲はたくさんありました。
でも、この曲は違う。
「辛いときも悲しいときも、笑ってるときも泣いてるときも、ありふれた日常も、かけがえの無いお前の人生なんだ」
そう、教えてくれたのです。
人生はいつか必ず終わるときが来る、だからこそかけがえの無いものだと。この曲を聴いて、僕は強くなりました。
そしてこの曲は、僕の世界観の一部になりました。
僕が愛している、僕を愛してくれる家族、友達、故郷の町、仕事。僕自身も、僕が好きなみんなも、いつか消えてゆきます。
すべては風に吹かれて、消えてゆきます。
だから、僕はそのときが来るまで、一生懸命生きていこうと思うのです。
そうだね。
この曲のテーマは「無常」。
「風」はその象徴だ。
同じ風は、二度と吹かない。
たとえ吹いたとしても、その時と感じ方は違う。
一度っきり。
そう、全ては一度っきりなのだ。
人の声も、表情も、感情も。
街の風景も。
取り巻く空気も。
すべては、移り変わってゆく。
風の坂道。
無常の坂道。
その途上で、僕は多くのものを得て、同時に、たくさんの大切なものを手放してきた。
懸命に歩いてきた登り坂も、いつかは降る時がくる。
その時に見える風景は、きっと、かつてとは違うはずだ。
歌詞を、具体的に見ていこう。
こうしてこの時が続けばと願ってから
人生はやがて確かに 終わると感じた
曲の鍵となるのは、この部分だ。
その前段には、次のような歌詞がある。
愛という言葉を初めて語ってから
このまま流されては生きてゆけないと誓った
「このまま流されてはいけない」
この文脈からは「この時が続けばと願う」事は、否定的なニュアンスになる。
そうなったら「人生は終わる」
現状維持を否定し、未来に向けて成長していく。
若く、力強い意志。
坂道の「登り」で見える風景だ。
僕もかつては、この解釈をしていた。
しかし、この後段の歌詞(サビ)を見ると、別の文脈が見えてくる。
ありふれた日々が 輝いてゆく
ありふれた今が 思い出に変わる
誰のものでも 誰のためでもない
かけがえの無い この僕の人生
「ありふれた日々こそが、かけがえのないもの」
この言葉から見ると「この時が続けばと願う」事は、意味合いが大きく変わってくる。
ああ、今日みたいな幸せな日々が、永遠に続くといいのにな。
日常のひと時、ふと、こう感じる時がないだろうか。
でも、それは決して叶わない望みなんだ。
いつか、必ず、目の前の家族も、僕自身も、街の風景も、すべては壊れていくのだから。
坂道を登り切り、やがてゆっくりと同じ道を降り始める時、人は誰しも、このような思いを抱く時があるのではないだろうか。
こうしてこの時が続けばと願ってから
人生はやがて確かに 終わると感じた
そう、この歌詞は、まさに坂道の分かれ目になっているのだ。
坂道を登る途上では「未来に向けた成長の意志」
降りの途上では「静かな諦念」
一つの風景も、坂道の「登り」と「降り」では異なる意味を持つ。
そう、だから「風の坂道」なのだ。
僕自身は、今、「静かな諦念」を感じている。
それは、僕自身がゆっくりと、坂道を降り始めた、という事なのだろう。
堤防の、桜の並木道。
「散歩道」から「仕事への道」へ。
そして、やがて再び「散歩道」へ。
通り抜けるスピードは、段々とゆっくりになってゆく。
校庭から聞こえる中学生の掛け声も、やがて遠ざかってゆく。
その時の僕に、桜並木の道は、どのように映るだろうか。