私はイヌになりたい

最近私は「イヌ」になる時があります。

わんわん!

クゥーん…

ぁオーん!

カリカリ…

こいつ、ついに狂ったか

いえいえ(笑)

私は至って「正気」です。

最初は「蝶」になろうと思ったんですが、難易度高すぎてやめたんですよね。

蝶にとっての「他者性」というものが、全くイメージできない^^;

だって、蝶と会話した事ないですし。。

やはりここは、比較的人間と互換性が高い「哺乳類」からトライすべきだな、と思い直した訳です。

自慢じゃないけど、私は「イヌ」「サル」「ウシ」とは「会話」できるんですよね。

「サル」と「会話」すると、他のお客さんの迷惑なので(檻中のサルが怒り狂って威嚇してくる)、滅多にやりませんが。

「ウシ」と「会話」していると、放牧中の他のウシが数十頭集まってきます。

数百メートル離れたウシが、ダッシュして向かってくる(笑)

これも少し怖いので、柵の外側からしか「会話」しません。

「イヌ」と会話できる人は多いですね。

私も16年間飼っていましたので、日常的に会話していました。

「イヌ語」は「行動」と組み合わせる事で、かなり多彩な表現が可能です。

例えば、お散歩に行きたい時は「クゥーん」と鼻を鳴らしながら、玄関ドアを「カリカリ」したり(笑)

この「行動」と「イヌ語(鳴き声)」を組み合わせて「表現」する、というのがポイントです。

人間のように「言葉」だけで完結させることができない。

「言葉」と「イヌ語」では、表現力、解像度に格段の差があるのです。

前者をPS5だとすれば、後者はファミコンですね(笑)

しかし、オッサンとして言わせてもらえば、最新の「キラキラ4K60fps」ゲームより、昔のファミコンゲームの方が、ずっと臨場感があったんですよ。

25色のドットで描かれたドラクエフィールドには、確かに風が吹いていました。

PSG三音の「この道わが旅」に「仲間との旅路」を回想し、涙したものです。

人間の「想像力」は、斯くも偉大なり。

ファミコンドラクエをプレイしても、恐らくそこに風は吹いていないでしょう。

私たちは「より便利に、より快適に」進歩する過程で、何か大切なものを切り捨ててきたように思えてなりません。

「言葉」も同様です。

これまで述べてきたとおり、人間は「言葉」による抽象化(本質化)により、他の動物には類を見ない巨大なテクノロジー社会を築き上げました。

私たちの生活は「言葉」に頼り切っています。

「言葉」が無ければ、現代の「安全、便利、快適」な環境は一瞬にして瓦解するでしょう。

しかし、逆にいうならば、もし仮にAIやロボットが「生産」や「物流」を完全に代替し得るならば、人に「言葉」は必要でしょうか。

抽象化(本質化)は必要でしょうか。

さらに言えば「知性」は必要でしょうか。

だって「イヌ」の方が、よほど「幸せ」そうじゃん(笑)

 

人間は、道具として使っていた筈の「言葉」に逆に支配(疎外)され、「本質」に閉じ込められてしまいました。

 

「イヌ」の世界には、抽象も本質もありません。

いつでも現象100%です。

悲しい時はクゥーんと鳴くし、怒るとワン!と吠える(笑)

「いい大人」という本質に囚われていないのです。

「いい大人が恥ずかしい」と、感情を抑えつけていませんか?

「イヌ」になると、とても素直に感情を表現できますよ。

というより、感情を出さないと何も伝えられないのです。「言葉」と違って。

「文脈」も表現できません。

だから「行動」とセットで、それを判断しなくちゃいけない。

必然的に、相手の行動を気に掛けるようになります。

相手の「行動」と「イヌ語」を組み合わせ、文脈を「想像」しないと「何言ってんのか分からない」からです。

 

私は「イヌ」になって初めて、自分がこれまで切り捨ててきたものの大きさに気付きました。

一日30分程度、家族内で「イヌ」になってみるのはお勧めですよ。

 

さて、次回以降では、この「言葉」について、もう少し詳しく、私の認識をお話ししていきたいと考えています。

私は「言葉」には致命的な欠陥がある、と考えています。

そもそも、この記事がそうです。

記事の最初に、私は「いえいえ、私は”正気”です」と書きました。

イヌ語を使う、という「現象」を目にした人は、私を「”正気”じゃない人」という牢獄へ閉じ込めようとする。

私はそれを避けるため、「言葉」を使ってロジックを組み、これが現象の「本質」である!と提示しました。

示された「本質」を見た人々は、私を「正気」だとカテゴライズするでしょう。

同時に私自身も、自分の行動を言語化・本質化したことで「なるほど、俺の行動にはこういう意味があったのか。言語化して初めて気づいたな」と安心する。

この瞬間、私は私自身が作り出した「本質」という牢獄へと閉ざされたのです。

「私がイヌ語を話す」という現象には、言語化できない要素が多く含まれていた筈です。

むしろ「言語外」の要素の方が、はるかに大きい。

そして、私はこれらの要素を「本質外」として切り捨ててしまった。

現象から「本質」を抽出するために、「本質」より大きなものを切り捨てたのです。

私は今後、この「本質」を根拠に行動し、解釈するようになるでしょう。

俗な言い方をすれば「言霊」が私に憑依した、ともいえます。 

私は自由を失い、自らが作り出した「本質」という牢獄に囚われたのです。

 

おわかりでしょうか。

この記事は、言葉という「本質」から逃れるために「イヌ語」を使うことを選択しながら、その現象を言葉によって本質化したがために逆にそこに閉ざされる、というアイロニカルな様を描いています。

人間とは、なんと哀しい道化師なのでしょうか。