菜の花を食べつつ、ふと考えたこと

お久しぶりです!

いや~、春ですね。

春といえば、やっぱりこれ!

おなじみ、菜の花(カラシナ)です。

私たちが菜の花と呼んでいるものには「カラシナ」と「セイヨウアブラナ」があります。

写真のように茎と葉っぱが離れているのが「カラシナ

対して、茎にまとわりつくように葉っぱがついているのが「セイヨウアブラナ」です。

味はカラシナの方が、よりおやんちゃです(笑)

一言で言うと苦味が強い。

より野生に近い、と言えるかもしれません。

私はカラシナの方が好きです。

この苦味がいいんですよね。

春の訪れを感じます。

 

あんた、いつもそこで菜の花とってるの。それ全部食べるんけの?

はい!大好きなんです。でもあんまり取ってる人見かけないですね。

今の時代にそんなもんとって食べる人、誰もおらんわ〜。

河原で菜の花を摘んでいると、よくこんな感じで話しかけられます。

そう、菜の花摘みって人気ないんですよね。

普通の人はもちろん、山菜採りが趣味の人からも敬遠されがちです。

私も山菜採りが好きなので、気持ちがよくわかります。

菜の花には、どうしてもテクノロジーを感じてしまんですよね。

 

yuubinyasan.com

 

一言で言うと「美味しすぎる」のです。

山菜採りは、自然を楽しむために行うもの。

そこでテクノロジーを感じてしまっては本末転倒、と言うことです。

では、なぜテクノロジーを感じるのか。

それは品種改良です。

ja.wikipedia.org

河原に自生している菜の花も、もともとは、人間が品種改良によって生み出し、栽培し、それが野生化したものです。

決して「自然」では無いのです。

試しにその辺の雑草を、ひと口噛んでみて下さい。

まずい、ですよね。

人間の味覚にとって、「都合の悪い」要素が多く含まれているからです。

苦み、えぐみ、渋み、食感の悪さ…

これが本来の「自然」の味です。

自然は、決して人間に優しくない。

そこで品種改良、です。

長い年月と様々な手段を用いて、これらの「都合悪い」要素を棄てる。

人間が美味しいと感じる、人間にとって「都合の良い」要素のみを抽出する。

つまり品種改良とは、自然状態の動植物を「人間の都合の良さ」で抽象化することといえます。

広義の遺伝子操作とも言えますね。

野生動物を「可愛らしさ」「人間への忠実さ」で抽象化して、ペット化する。

「繁殖しやすさ」「可食部の大きさ」「肉の柔らかさ」で抽象化し、家畜化する。

まさにテクノロジーです。

菜の花の「おいしさ」にテクノロジーを感じる、とはそういうことです。

 

人間の歴史とは、テクノロジーの歴史でもあります。

特に18世紀における啓蒙思想以降は、それが顕著です。

ヒューマニズム(人間中心主義)に基づき、人間は自然を「克服すべきもの」として捉え、テクノロジーを進歩させてきました。

自然から「人間に都合の悪い」要素を捨象し、「都合の良い」要素のみで抽象化する。

あらゆる自然を「意味あるもの」へと「改良」する。

そこに価値が生まれる訳です。

自然を「人間の都合の良さ」で抽象化し、「意味(価値)」を生み出し、それを消費して廃棄する。

これを限りなく効率化し、高速化したのが資本主義です。

価値は投資家のもとに蓄積され、再投資され、ますます膨張していく。

すべての自然が「意味あるもの」へと作り替えられていく。

街中で、ふと立ち止まり、周りを見渡してみてください。

ありとあらゆるものが抽象化され、意味を与えられていると気づくはずです。

抽象の洪水、意味の洪水ですね。

「道」は「通りやすさ」

「車」は「効率的な移動」

「街路樹や公園」は「適度なやすらぎ」

全ては、人間の都合による抽象物なのです。

 

京都、金沢、弘前等、戦災から逃れた古い街並みを歩くと、どこかホッとしますよね。

・細く入り組んだ道

・卍型の道

・唐突な行き止まり

かつて「敵から攻められた際の防御」という「意味」を持っていた街並みは、現在ではそれを失っています。

「意味の洪水」である現代都市から見ると、極めて非効率な、都合の悪い街といえます。

しかし、その「失われた意味の堆積」が、「意味の洪水」に疲れた現代人を癒すのも確かなんですよね。

 

現代においては、都市のみならず、田舎も「意味」に支配されています。

例えば田畑。

一見のどかですが、これは荒地を「効率的な食糧生産」という目的で抽象化し、意味を与えたものです。

山の展望台だって「眺望や居心地」で抽象化したものです。

 

人間関係も同様ですね。

例えばSNS

ミュートやブロック機能で、自分が不快に感じる言動を手軽にシャットアウト(捨象)可能です。

個々人にとって都合の良い(心地よい)人、情報だけを抽象化できる、ということです。

リアル社会でも同様に、厄介事の交渉などはAIが代行するようになるでしょうね。

交通事故の交渉を、保険会社が代行するようなものです。

「生身の人間と直接話すなど、もっての他!」が常識になる。

自然状態の人間など、何時何時、自分に不快感を与えるかわかったものではない、ということです。

メタバースの世界では、自身の心拍数や脳波の状態から「不快感」が厳密に定義され、あらかじめ自動ミュートしてくれるようになるかもしれませんね。

いや、そもそも脳内ホルモンを快楽物質のみで抽象化するほうが早いか(笑)

 

そして最終的には、肉体を捨てるでしょう。

人間に肉体がある以上、「有限性」と言う名の不快感から逃れる術はありませんからね。

いつも同じ結論になって恐縮ですが(笑)、この方向でテクノロジーが進化していけば、そうとしか考えようが無いのです。

デジタルなデータとして、コンピュータの中で生きる。

そこには、一片の不快感も存在しません。

「老い」も「死」も消滅します。

永遠の若さ、命。

それが「幸せ」を求め続けた人間のターミナルとなるでしょう。

 

こうなることは、人間が「言語」を手に入れた時点で、すでに決定付けられていたように思います。

言語化する」とは、事象の一面を切り取って概念化すること、即ち「抽象化」することに等しいからです。

「具体と抽象」などという言葉がありますが、言語化されている時点ですべて抽象なんですよ、きっと。

例えば、ある人の行動を

「Aさんが、二つのリンゴを手に取った」

言語化したとしましょう。

一見、この上なく「具体的」にみえますが、これは紛れもなく「抽象概念」です。

「Aさん」も「二つのリンゴ」も、「名前」や「数字」「個数」といった概念(虚構)を共通認識としていることが前提です。

「Aさん」も「二つのリンゴ」も、現実には存在していないのです。

「リンゴを手に取った」という言葉も、Aさんの行動の一面を切り取ったものに過ぎません。

Aさんは「呼吸」もしているし「服を着て」もいるでしょう。

考え事をしていて、何気なくリンゴを手にしたのかもしれない。

目的をもって、そうしたのかもしれない。

それらの要素は全て捨象し、「リンゴを手に取った」という一面だけを切り取って、言語化したに過ぎないのです。

結局、言語化とは「事象のある一面を、共通認識を持つ他者に伝達するために抽象概念化」する、ということなのです。

この言語によって、人間は巨大な虚構(抽象概念)を構築し、全ての自然を「自らに都合よく」作り替えていきました。

その結果、最後に残った「自然」である「肉体」も「抽象化」し、やがてそれを棄てる時が来る。

「肉体の抽象化」は、「美容整形」「男性の化粧」「顔写真の美化補正」等の一般化、という形で現在進行中ですね。

テクノロジーが「生命のデータ化」という形で、いずれ全て解決してくれるでしょう。

 

 

菜の花(カラシナ)には、苦味があります。

テクノロジー(品種改良)で捨象されなかった、小さな「人間に都合の悪い」要素が残っているのでしょう。

最後に残った、一片の自然。

 

私はその苦味が、好きです。