お久しぶりです!
いや~、春ですね。
春といえば、やっぱりこれ!
おなじみ、菜の花(カラシナ)です。
私たちが菜の花と呼んでいるものには「カラシナ」と「セイヨウアブラナ」があります。
写真のように茎と葉っぱが離れているのが「カラシナ」
対して、茎にまとわりつくように葉っぱがついているのが「セイヨウアブラナ」です。
味はカラシナの方が、よりおやんちゃです(笑)
一言で言うと苦味が強い。
より野生に近い、と言えるかもしれません。
私はカラシナの方が好きです。
この苦味がいいんですよね。
春の訪れを感じます。
あんた、いつもそこで菜の花とってるの。それ全部食べるんけの?
はい!大好きなんです。でもあんまり取ってる人見かけないですね。
今の時代にそんなもんとって食べる人、誰もおらんわ〜。
河原で菜の花を摘んでいると、よくこんな感じで話しかけられます。
そう、菜の花摘みって人気ないんですよね。
普通の人はもちろん、山菜採りが趣味の人からも敬遠されがちです。
私も山菜採りが好きなので、気持ちがよくわかります。
一言で言うと「美味しすぎる」のです。
山菜採りは、自然を楽しむために行うもの。
そこでテクノロジーを感じてしまっては本末転倒、と言うことです。
それは品種改良です。
河原に自生している菜の花も、もともとは、人間が品種改良によって生み出し、栽培し、それが野生化したものです。
決して「自然」では無いのです。
試しにその辺の雑草を、ひと口噛んでみて下さい。
まずい、ですよね。
人間の味覚にとって、「都合の悪い」要素が多く含まれているからです。
苦み、えぐみ、渋み、食感の悪さ…
これが本来の「自然」の味です。
自然は、決して人間に優しくない。
そこで品種改良、です。
長い年月と様々な手段を用いて、これらの「都合悪い」要素を棄てる。
人間が美味しいと感じる、人間にとって「都合の良い」要素のみを抽出する。
つまり品種改良とは、自然状態の動植物を「人間の都合の良さ」で抽象化することといえます。
広義の遺伝子操作とも言えますね。
野生動物を「可愛らしさ」「人間への忠実さ」で抽象化して、ペット化する。
「繁殖しやすさ」「可食部の大きさ」「肉の柔らかさ」で抽象化し、家畜化する。
菜の花の「おいしさ」にテクノロジーを感じる、とはそういうことです。
特に18世紀における啓蒙思想以降は、それが顕著です。
ヒューマニズム(人間中心主義)に基づき、人間は自然を「克服すべきもの」として捉え、テクノロジーを進歩させてきました。
自然から「人間に都合の悪い」要素を捨象し、「都合の良い」要素のみで抽象化する。
あらゆる自然を「意味あるもの」へと「改良」する。
そこに価値が生まれる訳です。
自然を「人間の都合の良さ」で抽象化し、「意味(価値)」を生み出し、それを消費して廃棄する。
これを限りなく効率化し、高速化したのが資本主義です。
価値は投資家のもとに蓄積され、再投資され、ますます膨張していく。
すべての自然が「意味あるもの」へと作り替えられていく。
街中で、ふと立ち止まり、周りを見渡してみてください。
ありとあらゆるものが抽象化され、意味を与えられていると気づくはずです。
抽象の洪水、意味の洪水ですね。
「道」は「通りやすさ」
「車」は「効率的な移動」
「街路樹や公園」は「適度なやすらぎ」
全ては、人間の都合による抽象物なのです。
京都、金沢、弘前等、戦災から逃れた古い街並みを歩くと、どこかホッとしますよね。
・細く入り組んだ道
・卍型の道
・唐突な行き止まり
かつて「敵から攻められた際の防御」という「意味」を持っていた街並みは、現在ではそれを失っています。
「意味の洪水」である現代都市から見ると、極めて非効率な、都合の悪い街といえます。
しかし、その「失われた意味の堆積」が、「意味の洪水」に疲れた現代人を癒すのも確かなんですよね。
現代においては、都市のみならず、田舎も「意味」に支配されています。
例えば田畑。
一見のどかですが、これは荒地を「効率的な食糧生産」という目的で抽象化し、意味を与えたものです。
山の展望台だって「眺望や居心地」で抽象化したものです。
人間関係も同様ですね。
例えばSNS。
ミュートやブロック機能で、自分が不快に感じる言動を手軽にシャットアウト(捨象)可能です。
個々人にとって都合の良い(心地よい)人、情報だけを抽象化できる、ということです。
リアル社会でも同様に、厄介事の交渉などはAIが代行するようになるでしょうね。
交通事故の交渉を、保険会社が代行するようなものです。
「生身の人間と直接話すなど、もっての他!」が常識になる。
自然状態の人間など、何時何時、自分に不快感を与えるかわかったものではない、ということです。
メタバースの世界では、自身の心拍数や脳波の状態から「不快感」が厳密に定義され、あらかじめ自動ミュートしてくれるようになるかもしれませんね。
いや、そもそも脳内ホルモンを快楽物質のみで抽象化するほうが早いか(笑)
そして最終的には、肉体を捨てるでしょう。
人間に肉体がある以上、「有限性」と言う名の不快感から逃れる術はありませんからね。
いつも同じ結論になって恐縮ですが(笑)、この方向でテクノロジーが進化していけば、そうとしか考えようが無いのです。
デジタルなデータとして、コンピュータの中で生きる。
そこには、一片の不快感も存在しません。
「老い」も「死」も消滅します。
永遠の若さ、命。
それが「幸せ」を求め続けた人間のターミナルとなるでしょう。
こうなることは、人間が「言語」を手に入れた時点で、すでに決定付けられていたように思います。
「言語化する」とは、事象の一面を切り取って概念化すること、即ち「抽象化」することに等しいからです。
「具体と抽象」などという言葉がありますが、言語化されている時点ですべて抽象なんですよ、きっと。
例えば、ある人の行動を
「Aさんが、二つのリンゴを手に取った」
と言語化したとしましょう。
一見、この上なく「具体的」にみえますが、これは紛れもなく「抽象概念」です。
「Aさん」も「二つのリンゴ」も、「名前」や「数字」「個数」といった概念(虚構)を共通認識としていることが前提です。
「Aさん」も「二つのリンゴ」も、現実には存在していないのです。
「リンゴを手に取った」という言葉も、Aさんの行動の一面を切り取ったものに過ぎません。
Aさんは「呼吸」もしているし「服を着て」もいるでしょう。
考え事をしていて、何気なくリンゴを手にしたのかもしれない。
目的をもって、そうしたのかもしれない。
それらの要素は全て捨象し、「リンゴを手に取った」という一面だけを切り取って、言語化したに過ぎないのです。
結局、言語化とは「事象のある一面を、共通認識を持つ他者に伝達するために抽象概念化」する、ということなのです。
この言語によって、人間は巨大な虚構(抽象概念)を構築し、全ての自然を「自らに都合よく」作り替えていきました。
その結果、最後に残った「自然」である「肉体」も「抽象化」し、やがてそれを棄てる時が来る。
「肉体の抽象化」は、「美容整形」「男性の化粧」「顔写真の美化補正」等の一般化、という形で現在進行中ですね。
テクノロジーが「生命のデータ化」という形で、いずれ全て解決してくれるでしょう。
菜の花(カラシナ)には、苦味があります。
テクノロジー(品種改良)で捨象されなかった、小さな「人間に都合の悪い」要素が残っているのでしょう。
最後に残った、一片の自然。
私はその苦味が、好きです。