映画「サバイバル・ファミリー」を見てみました!
三菱サラリーマン氏がブログで推奨されていて、気になっていたんですよね~。
氏のお勧めする作品はジャンルを問わず面白いので、レビュアーとしても信頼しています。
宮本輝「流転の海」シリーズなんか、最高でしたね。
図書館の棚一列を占拠するほどの長~い小説なのですが、二週間ほどで一気読みしました。
同じく氏推奨の「らいおんのおやつ」は、予約一杯で未だ読めていません^^;
で、サバイバルファミリー。
あらすじ(ネタバレ有)
ある日、突然日本全国の電力供給が止まり、それに伴いガスや水道といったライフラインも全て停止してしまう。 それらに留まらず、自動車やパソコン、携帯電話や時計といった生活必需品までも使用不可能となり、あらゆる情報網が遮断され、人々は自給自足の生活を強いられる。 通貨や紙幣、ブランド物は無用の長物となり、人々は施しや物々交換で日々の生活を凌ぐ。
東京都内に住む鈴木一家は数日で生活に困窮することとなり、「西日本へ行けば電力網が活きている」という噂を頼りに光恵の実家である鹿児島へ向かう事になるが、 飛行機などの交通機関も使えないため、止むなく自転車での長距離移動を決める。
鈴木一家は高速道路を自転車で西へ進み、サバイバル生活の中で様々な人々と出会いながら、鹿児島を目指す。
wikipediaより引用
紆余曲折ありながらも、一家は鹿児島にたどり着きます。
しかし、そこでも「電力」は死んでおり、結果として一家は「文明社会への復帰」という目的は果たせませんでした。
そこで待っていたのは、原始時代さながらの自給自足だったのです。
男たちは漁に出て、魚を捕る。
女たちは野菜を育て、老婆の指導の下で機を織る。
そのような生産関係(社会的役割)の下での生活です。
そこには、現代の分業&貨幣経済社会で失われていた「共同体」がありました。
「人と人との関わり」の中で、一家は「本来の人間性」を取り戻していきます。
気持ちがバラバラになっていた「家族」も、本来の機能を取り戻します。
…最終的に電力は復活し、一家は文明社会へと復帰。
しかし、一家の生活は以前とは全く違います。
自ら魚を捌き、裁縫をし、弁当を作る。
一家は「分業と貨幣経済」に頼り切る事のリスクと、それによって失われる「絆」の大切さに気付いたのです。
感想①人間の精神は「生産力と生産関係」に規定される
これって「火垂るの墓」のハッピーエンド版だよね!
見終わって、このような印象を持ちました。
何でもすぐに類型化してスイマセン^^;
私の癖なのです。
「火垂るの墓」は、現代社会の高度な「生産力と生産関係」によって規定された精神を持つ現代人(清太)を、生産力の低下した戦時中に放り込むことで発生する「反応」を観察する「思考実験」である。
これが、私の「火垂るの墓」の解釈です。
「人間の精神は、時代の生産力及び生産関係によって規定される」
マルクス主義の基本的な考え方ですね。
人間は自由意志で動いているように見えても、実際には時代の「生産力」と「生産関係(社会的役割等)」によって、その精神は、ほぼ決められてしまうということです。
高度に発達した生産力を持つ社会(分業&貨幣経済)においては、共同体の役割は低下し、最終的には破壊されます。
お金さえあれば、自由にモノやサービスと交換できるからです。
共同体で窮屈な役割を果たす必要はない、ということです。
このような時代に「規定」された清太さんは、戦時中においても「共同体との関わり」を拒絶します。
節子以外には一切笑顔を見せず、勤労奉仕にも出ず、居候先でも洗い物一つしません。
生産力の低下した時代(物々交換社会)においては、共同体の役割は増大します。
そのような状況にあって、清太の態度は致命的でした。
最終的に清太は、居候先のおばさんを拒絶し、家出をし、そして餓死します。
「現代」の精神(自分の気持ちが大事)を貫き、変わる事の出来なかった清太の悲劇ですね。
そして「サバイバル・ファミリー」においては、物語は全く逆の展開を見せます。
停電前、つまり高度な生産力を有する社会においては、「家族としての共同体」は壊れています。
息子は「家族で食卓を囲む」ことを拒絶し、自分の部屋でファストフードをパクつく。
お金さえあれば、家族と関わらずに済む、ということです。
家族の気持ちはバラバラです。
更に「分業と貨幣経済」によって「生産手段」を失った現代人としての姿も描かれます。
妻は、実家から送られてきた魚を捌けず、夫もこれを拒否します。
虫付きの有機野菜は「汚いもの」として扱います。
分業社会においては、他人が綺麗にさばき、虫を取り除き、美しくパッケージングしてくれるからです。
お金さえあれば、これらの労働は他人に押し付けることができる、ということですね。
そして「大停電」によって、この「分業&貨幣経済=高度な生産力」社会は崩壊します。
一家が清太さんと異なるのは、ここからです。
生産力を失った社会の中で、様々な困難を乗り越えていくうちに「家族としての共同体」が、徐々に機能回復していくのです。
「生産力を失った社会」に一家が「適応」し、それによって生存に成功する。
私がこの映画を「ハッピーエンド版火垂るの墓」と類型化する理由が、ここにあるのです。
感想②「環境」が変われば「価値の序列」は一変する
「目的」や「環境」によって「価値の序列」は変化していく。
従って、全ての価値は相対的なものにすぎない。
サバイバル・ファミリーでは、この事実をこれでもか、と見せつけられます。
②物流が崩壊したことで「東京=都会」が価値を失い、水や食料の生産地である「田舎」の価値が上昇。
③停電によって「ホワイトカラーの部長職=父親」が価値を失い、「養豚業のオヤ ジ」や「機織り機を扱える老婆」の価値が上昇。
④明かりを失ったトンネルでは「視覚に頼る健常者」が価値を失い、「闇を歩き慣れた視覚障碍者」の価値が上昇。
⑤「飛行機」が価値を失い、「蒸気機関車」の価値が上昇。
「停電」ひとつで、あらゆる分野で「価値の下克上」が発生しています。
一見、絶対的に思える価値も、環境の変化で一変するという事ですね。
現時点の環境で「勝ち組」「負け組」などと分類することが、いかに意味を持たないかを思い知らされます。
郵便屋さんの復権?
最後に、郵便屋さんとしてちょっと嬉しい「価値の逆転」を紹介します。
映画の序盤、一家の長男である賢司に、片思いの学友・里美から電話があります。
講義の画像データを電子メールで送って欲しい、という依頼です。
片思いのあいつが、この俺を頼ってくれた!
賢司は喜び、さっそく電子メールに画像データを添付し、送信しました。
…結果として、この恋は実りません。
が、ここは小さな伏線になっています。
時間は流れて、物語中盤。
一家は道中で出会ったアウトドア・ファミリーに、家族写真を撮ってもらいます。
デジカメは使えないので、当然、フィルムカメラですね。
一家は「いつか写真が出来たら送って欲しい」と頼み、住所を伝えます。
これが第二の伏線です。
そして物語の最終盤、この伏線が地味に回収されます(笑)
停電が復旧し、東京に戻った一家に、一通の郵便が届きます。
もちろん、郵便屋さんによって。
その郵便には、不器用な手書きで、差出人名が記されていました。
そう、道中で出会ったアウトドア・ファミリーです。
封筒の中には、あの時の薄汚れた家族写真が入っていました。
本当に大事なものは「電子メールの添付データ」ではなく「郵便屋さん」によって届けられた、ということですね。
人と人との関係性、ということです。
非常に地味な伏線回収ですが(気付いた人、いるのか?笑)、同じ郵便屋さんとして、ちょっと嬉しいラストシーンでした。
ということで、おかげさまで大変示唆に富んだ映画に出会うことが出来ました。
三菱サラリーマン様、ありがとうございましたm(__)m