NHKで、FIREについての面白い放送があったみたいですね。
【早期リタイアした人“FIRE”】
— NHK ねほりんぱほりん (@nhk_nehorin) 2022年10月14日
家賃込みで月5万円の生活をしているカツさん
・食費は月1万円
・毎日同じメニュー
・朝食、なし
・昼食、みそ汁とプロテインと納豆
・夕食、玄米と鍋
・野草を摘む
・土手は野菜売り場#ねほりんぱほりん pic.twitter.com/Wm47ZqtY25
私は残念ながら見ていなかったのですが、Twitterで流れてきたこの画像を見て、思わず笑っちゃいました。
これ、10年前の俺じゃん!!
「土手は野菜売り場」とか、共感しかない(笑)
何といっても「菜の花」が土手市場の王様だよね~。
・簡単かつ大量に収穫できる(数分で1,000円分くらい採れる)。
・あく抜き不要で、調理も簡単。
・多様なメニューに使える(汎用性が高い)。
・栄養豊富。
・山菜に付き物である「シュウ酸」「プタキロサイド」等の有害物質がほとんど含まれない。
などなど、メリットいっぱいです。
次点で「水ぶき(ウワバミソウ)」かな~。
こちらは土手では採れないので、山辺の清流沿いまで足を延ばす必要があります。
「食費1万円」は凄いけど、「毎日同じメニュー」は共感できないな。
月1万円あれば、それなりに幅を持たせることはできると思います。
でもまあ、これは地域性に依存するかな。
田舎だと「米、野菜は無料(もらい物)or格安」が基本ですしね。
柿なんか、スーパーでよく見かけますが
柿なんて、わざわざお金払って買う人いるの!?
という感覚です。
これらの状況を考えると、「都会」と「田舎」では、低資産FIREの難易度は大きく変わってきそうですね。
結局、人それぞれの「目的」次第
こういった「低資産FIRE」に対して批判的な人もいます。
しかし、まず認識しておきたいのが、こういった批判というものは必ず不毛なものになるということです。
「価値の判断基準」「価値のランキング」は、人それぞれの「目的」によって規定されます。
万人にとっての「普遍的な価値」は存在しません。
全ての価値は相対的なのです。
そして、その「目的」は「自分の気持ち」によって設定されます。
「みんなで頑張って、みんなで豊かになる」というような、社会共通の目的(物語)は崩れているのです。
そして「目的の共通性」を失っている以上、批判や議論といったものは自己満足的にしかならない。
もちろん、「自己満足的な批判を行う自由」はみんな持っています。
それによってエネルギーが生産され、自身の目的への原動力となるならば、それはそれで結構な事だと思います。
【早期リタイアした人“FIRE”】
— NHK ねほりんぱほりん (@nhk_nehorin) 2022年10月14日
FIREを目指した理由
カツさん「働く場所や時間とか、自分の自由がきかないというのが何かストレスでしたね。好きなアニメを見る気力も起きない。ホント酸欠で苦しいみたいな感じ。それが今やっと酸素が吸えた感じで」#ねほりんぱほりん pic.twitter.com/lgSlLwKv39
この「カツさん」は、働くことが本当に苦痛だったようですね。
「できる限り早く、働くことを辞めたい」
これが、カツさんの「目的」だったのではないでしょうか。
ならば当然、「低資産FIRE」は選択肢に入ってくるでしょう。
「贅沢に暮らす事」より「早く仕事を辞める事」の方が、「価値のランキング」の上位にあるからです。
誰にも批判される筋合いはありません(というより、批判自体が成り立たない)。
あくまでも「自分の気持ち」によって、全ては規定されると言うことです。
…ただ、この「自分の気持ち」というものも厄介なんですよね。
最近、よく考えるんです。
「自分の気持ち」って、いったい何なんだ?って。
「自分の気持ち」って「脳内物質」の事なのか?
「今日こそはブログ書くぞ~!!」
と意気込んではみたものの、な~んか集中できない。
そんなこと、ありませんか?
私はしょっちゅうです(笑)
ふとフローリングの汚れが気になって掃除を始めたり(普段は気にしないくせに!笑)、コーヒーを入れてみたり、読みかけの本を読みだしたり…
気が付くと、外は日暮れて真っ暗。
ああ、今日も一日無駄にしちまった_| ̄|○
俺はなんてダメなんだ…と気分が落ち込みます。
こんな日、ありますよね。
そんな時、私は決まって筋トレを始めます(笑)
腕立て、懸垂、スクワット…
一通りこなすと、あら不思議。
さっきまでの落ち込みが嘘のように、気分が晴れ晴れとしてきます。
ああ、今日も健康的で生産的な一日だったな!ブログ?そんなの、明日でいいよ!
こんな感じですね。
この、無駄な高揚感の正体は脳内物質です。
筋トレを行う事で、エンドルフィン、テストステロン、ドーパミンといった脳内物質が分泌されます。
これらの物質には、気分を高揚させたり、やる気を高めたりする働きがあります。
一言で言うと、多幸感ですね。
私は、「ブログを書く」という目的を果たせなかったことで落ち込んだ「気持ち」を、筋トレによる脳内物質で誤魔化した、といえます。
さて、では問題です。
この状態の時、私は「幸せ」なのでしょうか。
脳内物質の働きにより、「多幸感」はあります。充実感バリバリです。
しかし、「ブログを書きたい」という私の本来の「気持ち」は裏切っていますよね。
更に言えば、脳内物質によって本来の「自分の気持ち」が改変されてしまった、ともいえます。
この「多幸感」は、やっかいなことに「仕事終わり」においても感じます。
郵便配達という仕事は、強度は弱いにせよ「筋トレ(無酸素運動)」「マラソン(有酸素運動)」的な側面があります。
そのため、仕事終わりには、まるで筋トレ後のような「多幸感」が感じられるのです。
これが「やっかい」なのは、「自分の本来の気持ち」が分からなくなってしまう事です。
朝の出勤時の気分は最悪で「一刻も早く辞めてぇ!」という気持ちでいっぱいです(笑)
また、「若いうちの時間は大事」「親が元気なうちに旅行にもっと連れていきたい」といった「気持ち」も大いにあります。
…しかし、この「気持ち」が、仕事終わりの「多幸感」によって明瞭さを失ってしまう。
ま、いっか!明日もがんばろ!…といった感じで、「本来の気持ち」が「その時の気分」で流されてしまう訳です。
これは私だけの問題ではありません。
郵便配達には、公務員等を目指す傍らの「腰掛け」のつもりで入ってくる人も多くいます。
しかし、そんな人も5年、10年とずるずる続けてしまう事例が多いのです。
あれ?あの人確か公務員目指すって言ってたけど…どうなったんだ??
恐らく彼らも、その日その日の「多幸感」つまり脳内物質に「気持ち」が流されてしまったのでしょう。
…では、ここで再び問題です。
「幸せ」って、結局「脳内物質」の問題なのでしょうか?
私は先日の記事で「家族を守る」という物語の主人公で居続けるために「サラリーマン」を辞めることが出来ないでいる、と書きました。
…しかし、この「家族への愛情」というものも、結局は「オキシトシン」という脳内物質の働きに依るものだと言われています。
ということは、私の本来の「自分の気持ち」がオキシトシンによって阻害されている、ともいえるわけです。
いやいや、そんな深く考えなくても「幸せ」を感じてるんならそれでいいじゃん!
そう言われるかもしれません。
しかし、本当に「幸せ」=「脳内物質」という考えでいいのでしょうか。
「現代経済学の直感的方法」の著者である長沼伸一郎氏は、同書第9章「資本主義の将来はどこへ向かうのか」でこう述べています。
ここで一つの想像として「快楽カプセル」というものを考えてみよう。
つまり人間一人が入れるカプセルがあって、その中で仮想現実のゲームに浸っていると、そうした薬物の助けを借りて脳内の幸福物質=ドーパミンなどが最も効率よく分泌されるとするのである。
中略
人々がずっとその快楽カプセルの中で過ごすようになれば、物理的なエネルギーの消費量も少ないので地球環境にかかる負担も最小限にできる。
つまり、環境問題の究極的な解決策だというわけである。
これと似たようなことを、ハラリさんも言ってましたよね。
ピーター・ティール氏を始めとする、加速主義テクノロジストの目指す未来でもあります。
「理性=テクノロジーの発展によって自然を克服した先にこそ、人間の幸福がある」
この思想を推し進めれば、「人間の幸福」の計算可能化・コントローラブル化に行きつくのは自明です。
つまり、「安全な麻薬」こそが人間の究極の幸福である、ということになります。
心の商品化、です。
愛情、友情、絆、信頼、希望…そして幸せ。
これらが全て「商品」としてパッケージングされ、お金で売買されるようになる。
「人と人との関係性」によってしか生産されなかった「これら」が、商品として売買されるようになるのです。
それが、資本主義の終点です。
資本主義とは、「あらゆる物質代謝を商品を通じて行う社会」です。
そこにおいては、あらゆるものを「商品化」しようとする力が働きます。
最近では「Amazonお坊さん便」や「友人代行」といったものまで商品化されましたよね。
「共同体=人と人の関係性」の役割を破壊し、劣化させる代わりに「利益」を取り出す。
これが資本主義の基本的な運動です。
エントロピー増大則にも、良く準えられますよね。
さて、ではここで、先ほどの「私の問い」に戻ります。
私は「ブログを書けなかった」事で落ち込んだ気持ちを、筋トレによって高揚させました。
「多幸感」に包まれています。
私の選択は、正しかったのでしょうか。
それとも、「ブログを書けなかった」という負の感情を引き受け、本来の「自分の気持ち」と向き合うべきだったのでしょうか。
何気ない日常の一コマではありますが、ある意味、人類の行先にも関係するような、重い問いでもあるのです。
…う~ん、またとんでもない所に着地してしまいましたね^^;
もっと軽いノリの記事にするつもりだったのですが…