「どうぶつの森」化する世界

またまた、大変面白いブログを発見してしまいました。

withtulpa.com

哲学・宗教から政治経済、果ては数学・物理まで。

日常的な些細な疑問、気づきを切り口に、様々な考察を繰り広げるブログのようです。

管理人のルナール氏は、大変に知的な方ですね。

あまりにも面白くて全記事読んでしまいました(笑)

ぜひ、読んでみてください。

 

さて今回は、このブログの1記事を取り上げさせて頂こうと思います。

withtulpa.com

この記事では「スペイン、ギリシャ等が貧しいのは地中海性気候だから」という内容の動画を批判しています。

www.youtube.com

①降水量の少ない地中海性気候では、ブドウ、オリーブの栽培が盛ん。

②こうした果樹は小麦や稲ほど作付面積あたりの利益が高くなく、農家が貧困から抜け出すのが難しい。

③それゆえに地中海に面した国々は、フランスやドイツに比べて貧しい。

このような動画の主張に対し、ルナール氏は

「作付面積あたりの利益が大きい農作物を栽培できないから」という理由で経済を説明するなら、農業により不向きなスイスが豊かであるのはおかしい。

②地中海性気候の代表たるイタリアも、同様に豊かである。

③従って、動画はストーリーに都合の良い事実だけをピッキングしているに過ぎない。

と批判しています。

いわゆる「チェリーピッキング(自説に都合の良いデータだけをピックすること)」への批判ですね。

 

確か少し前に、ハラリさんや「銃・病原菌・鉄」のダイアモンドさんも同じ理由で批判されていました。

togetter.com

社会科学系の「理論」には、こうした批判が付き物です。

古くは、唯物史観マルクス)に対する「上からの演繹」批判が有名ですね。

歴史を解釈するときに、まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方は、あやまりである。

中略
このような「上からの演繹」は、かならずまちがった結論へと導く。事実につきあたるとそれを歪めてしまう。事実をこの図式に合致したものとして理解すべく、都合のいいもののみをとりあげて都合のわるいものは棄てる。

竹山道雄『昭和の精神史』より引用

共産主義国家は、その理論を絶対視するあまり、現実社会の「都合の悪い事実」を棄て続けました。

棄てられた「都合の悪い事実」には、何百万という人間も含まれています。

 

ルナール氏も述べているように、人間社会は歴史、政治体制、戦争、国民性などが複雑に絡み合い、相互に影響し合っています。

いわゆる「複雑系」ですね。

これを「因果律の理論」で説明するのは、極めて困難といえます。

 

Aは、ある条件の下ではBである可能性が高い。

BはC,またはDである。

ただしEの場合、BはDではない可能性がある。

従って、AはCである可能性が示唆されるが…

 

あらゆる事実をできる限り客観的に見ようとすれば、このような書き方にならざるを得ません。

これは「検証」ですね。

これを行うには「知性」はもちろんですが、加えて強い「忍耐」が必要とされます。

何故「忍耐」が必要か。

そう、確証バイアスですね。

人間は、自分に都合の良い事実ばかりを無意識に集め、それに基づいて「物語」を構成するという、本能的な「感情」を持っています。

チェリーピッキングは、ある意味で人間らしい、自然な感情に基づくものと言えます。

この、物語に流れがちな「感情」を制御しつつ検証を行うために「忍耐」が要される、ということです。

高度な「知性」と、感情を制御する「忍耐」

つまり、理性です。

「理性の時代」の始まり、そして

「理性の時代」は「啓蒙思想」として、18世紀の西欧において始まりました。

kotobank.jp

神,理性,自然,人間に関する観念が一つの世界観に統合され,多くの賛同者を得て,芸術,哲学,政治に革命的な発展をもたらした 17~18世紀のヨーロッパの思想運動。人間の可能性は,正しい「理性」によって切り開かれるもので,そこにこそ真実の認識と人類の幸福とを得ることができるという確信に貫かれていた。

魔女狩りに代表される、迷信や古い因習を「理性」の力で打ち破り、合理的かつ科学的な思考で「進歩」していくことで、人間はより幸せになれるんだ!という思想です。

科学技術の発展による自然支配の拡大は、人間の歴史が時代を経れば経るほど進歩していくという考えを生み出していった。

中略

 とりわけて重要なのは、人間の発展の可能性に対する確信である。人間は教育によって条件を与えられるならば無限に完成への道程を歩み、進歩していくものだと考えられるようになってきた。

ーテクノロジーの発展と経済成長によって、「自然」は「克服」され、人間は「より良き未来」へと導かれるー

いわゆる「進歩主義」です。

 

事実、テクノロジーの進歩は、社会を格段に豊かにしました。

長い間、人類を苦しめてきた飢餓・疫病は克服され、平均寿命は大幅に伸びました。

自動車、テレビ、冷蔵庫等の耐久消費財は広く行き渡り、生活は格段に便利になりました。

第二次大戦後の数十年間は、まさに「理性」の黄金時代だったといえるでしょう。

その先に幸せはあったのか

…しかし、です。

豊かになった結果、人は「幸せ」になったのでしょうか。

プレジデントオンライン 2016年9月12日号より引用

「理性」は「感性(感情)」の対義語です。

私たち人間は「今この時」の感情を理性によって押さえつけ、懸命に働いてきました。

すべては「より良き未来」のために。

 

しかし「より良き未来」には、肝心の「幸せ」がありませんでした。

 

溢れんばかりのモノやサービス、飽食の先にあったのは「虚無」でした。

「自然」を「克服」した先に待っていたのは、環境の破壊と災害の多発でした。

「長寿」は実現されましたが、高齢化によって社会構造はゆがみました。

今後、団塊の世代が要介護となるにつれ、現役世代には多大な負担が圧し掛かってくるでしょう。

団塊ジュニア世代が高齢者となるころには、その「歪み」はピークに達します。

認知症患者は激増し、介護離職も多発。

社会がこれに耐えられるはずはなく、認知症患者は恐らく、強制的に財産没収の上、施設に強制入居となるのではないでしょうか。

その施設にしても人手不足は限界に達し、認知症患者に対する身体拘束は常態化するでしょう。

www.news-postseven.com

スマホをいじる事も、本を読むこともできない。

かゆい所を、自由に掻くこともできない。

身体自体は健康なので、死ぬことすらできない。

その時になって、私は思うのでしょう。

 

ーこのような「より良き未来」のために、私は懸命に働いてきたのかー

時代は「理性」から「感性」へ

そう、人々は気付いてしまったのです。

幸せは「より良き未来」なんかにはない。

それは「今ここ」で感じるしかないのだと。

 

いま私は、人間社会の流れが大きく変わり始めているのを感じます。

「未来」から「今ここ」へ

「都市」から「自然」へ

「集団の利益」から「個人の気持ち」へ

「効率の追求」から「ゆとりある日常」へ

「抽象概念」から「具体」へ

そして「理性」から「感性」へ

 

私は「理性」の時代は終わったと考えています。

これからは「感性(感情)」つまり「みんなの気持ち」の時代です。

検証ではなく物語が力を持つ時代です。

 

近年「資本主義の限界と行き詰まり」が問題視されるようになりましたよね。

しかし「資本主義」も「社会主義」も、根底は「理性(進歩)主義」で繋がっています。

いずれも「より良き未来のためにテクノロジーを発展させ、経済成長を目指す」という目的は共通です。

つまり、社会主義の崩壊は「理性の時代」の「終わりの始まり」であり、資本主義の危機は、その終わりを象徴しているのではないか。

私はそう考えています。

どうぶつの森」化する世界

「あつまれ どうぶつの森」というゲームをご存じでしょうか。

このゲームには、明確な「目的」がありません。

魚を釣ったり、ガーデニングを楽しんだり、インテリアを考えたり。

ゲーム内の時間も、現実の時間と連動しているため、非常にゆったりしたものです。

文字通り「スローライフ」を楽しむゲームだといえます。

 

私は、このようなゲームが大ヒットしている事に「理性の時代」の終わりを感じます。

私が若いころのゲームといえば、

・明確な目的(「ハイスコアをとる」「魔王を倒す」「全国を統一する」など)があり

・その達成に向けて努力し、成長することで

・次々に現れる「課題」を効率的にクリアし、

・最終的に「目的」を達成する

このような流れのゲームが大半でした。

「未来の目的」のために「今、努力」し、成長するという楽しみ方です。

まさに理性主義的ですね。

ゲームに限らず、漫画やドラマも「友情、努力、勝利」型が多かったように感じます。

「より良き未来」のために、「今、頑張る」ということです。

どうぶつの森がつまらない、と感じる人は、恐らくこのような文脈でこのゲームを捉えているからではないでしょうか。

私もその一人です(笑)

 

「いかに効率的に目的を達成するか」ではなく、その過程にある「ゆったりとした時間」や「日常の小さな喜び」に価値を見出す、ということですね。

その「目的」も、「自分の気持ち」が基準です。

「みんなで、共通の目的に向かう」のではない。

「あつまれ どうぶつの森」とは、そのようなゲーム(らしい)です。

 

現実の人間社会も「どうぶつの森」化していくのでしょう。

「価値の基準」が「社会共通の目的」から「自分の気持ち」へと内部化していく。

つまり、社会の総エンタメ化です。

「自分の気持ち」が基準化するとは、そういうことです。

その影響は、様々なところで出ています。

FIRE、大退職時代、静かな退職、出世したくない若者。

陰謀論」の台頭、権威・エビデンスの失墜、論破することが目的の議論…

そして「検証」から「物語」へ

 

「未来の、共通の目的」から「いまここの、自分の気持ち」に基準に移るとは、

人間がどうぶつ化するという事でもあります。

「未来」や「共同体」といった抽象概念は、人間にしか持ちえないからです。

これを放棄するという事は、そういうことです。

どうぶつの森」と化した世界

それは、どのようなものでしょうか。

楽しみですね。