哲学・宗教はユニクロ化する

我が家は、浄土真宗門徒です。

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浄土真宗では、死んだ瞬間に誰もが「仏様」になり、迷わず極楽浄土に行けるとされています。

香典袋に、一般的な「御霊前」ではなく「御仏前」と記すのは、そのためです。

「霊」など、存在しないという事ですね。

「ご冥福をお祈りいたします」という言葉も使いません。

「冥土」など存在しないので、「冥福」を祈られる必要はないですから。

死ねば誰もが「仏様」なのです。

 

ちなみに、ばあちゃんと…というか家族と接する時の私は、普通に絶対主義的な思考・言動になります。

「仏様」「ご先祖様」「極楽で、また会おうね」等、絶対主義的なワードが頻出します。

おいおい、お前は相対主義者じゃなかったのか?

そういわれるかもしれません。

しかし、生粋の相対主義者である私にとって、それは全く自然な事です。

相対主義者の「価値の基準点」は「自分の気持ち」だからです。

あらゆる普遍性絶対性が失われ、全てが相対化された後、最後に残るのは「自分の気持ち」です。

全ての意味が崩壊した後、最期にのこる「絶対」こそが「自分の気持ち」なのです。

相対主義者は、最終的にここに行きつきます。

これが「自分に都合が良いことがすべて」という状態です。

 

身近な人を亡くした時、そして自分自身がそうならんとする時。

人は絶対的なものに縋りたくなります。

何十人という看取りを行ってきた母によれば、死を前にして怯える患者さんには「仏様」「阿弥陀如来様」の話を聞かせると、一様にほっと安心した表情になるそうです。

そう、「死ねば誰もが極楽に行けて、仏になる」という思想は、普段信心がない現代人にとって、大変都合が良いのです。

また、浄土真宗では修行をしたり、戒律を守る必要もないとされています。

僧侶になったとしても、肉食妻帯なんでもOK。

非常にカジュアルで現代的な宗派なのです。

まあ、この辺が信長の逆鱗に触れて、比叡山を焼き討ちされるのですが^^;

そんな緩い思想では、自堕落になってしまう!と考えるのならば、戒律のより厳しい別の宗派、別の宗教を信じればよい。

その時々の「自分の気持ち」に応じて、宗教・哲学を自由に選択すれば良いのです。

価値の基準点は、あくまで「自分の気持ち」なのですから。

 

世界の相対主義化が進むにつれ、この動きはますます加速するでしょう。

哲学・宗教を「誰もが受け入れやすい、ベーシックでカジュアルなデザイン」にして、その「機能性」を特化させる。

要は「ユニクロ・ワークマン化」です。

暑い時は「エアリズム」を、寒い時は「ヒートテック・フリース」を「自分の気持ちに応じて」着ればよい。

伝統衣装(共同体の基準)を、無理に着る必要はないのです。

ベーシック(最大公約数)なデザインで、カジュアルに「機能性」を追求する、ということです。

 

「禅」も「マインドフルネス」として世界中に広がりましたよね。

「禅」の宗教色を取り払い、ベーシックかつカジュアルなデザインで、機能性を特化させたのが「マインドフルネス」です。

「サウナの整い」も、その派生でしょう。

マインドフルネスやサウナは、「禅」のユニクロ化といえるのです。

「プチ断食」なんかもそうですね。

 

マルクス主義も、カジュアル化が進んでいます。

マルクス主義には、「資本主義の分析」そして「革命運動の扇動」という異なる二面性があります。

前者だけ抽出すれば、あら不思議。

立派な長期投資のバイブルになります。

共産主義思想を、資本家になるためのマニュアルとして利用するのです(笑)

それでは、マルクスの意図から外れるって?

そんな事はどうでも良いのです。

自分に都合が良いこと。それだけが全てです。

長期投資を成功させるには、自分の気持ちをコントロールする必要があります。

その目的を達するため、あらゆる思想を切り貼りし、都合良く利用すればよいのです。

「脱成長(左派)」も「ネオリベ・加速主義(右派)」も、いずれもマルクス主義のカジュアル版ですよね。

右も左も、自分たちに都合よく利用しています。

私たち個人は、それをまた「自分に都合よく」使えばよい。

資産形成中は「ネオリベ」、形成後は「脱成長」がおすすめです。

 

このように、哲学・宗教の「ベーシックデザイン化」「機能性特化」は進み、人生の様々なシーンにおける「自分の気持ち」に応じて、気軽に「着替える」ことが出来るようになるでしょう。

相対主義が蔓延し、「価値の基準点」が「共同体」から「個人の気持ち」へと移行していく以上、それは必然なのです。

共同体にとっての「真理の追求」「共通項の探求」より、自分の気持ちが優先ということですね。

 

最後に、一つ注意点を。

これまで述べてきたことは、あくまで「財の供給が、需要を常態的に上回っていること」が前提です。

生産力が十分に高く、慢性デフレ社会である事が前提条件です。

何故ならば、相対主義、つまり「自分の気持ち」優先・共同体軽視の思想は経済現象だからです。

人間の精神は、経済(生産力)の従属変数ですので、何らかの要因で生産力が低下すれば、当然人間の精神・思想は変化します。

共同体重視の方向へ。

その場合は、おとなしく「自分の気持ち」は封印して、「共同体の掟」に従いましょう。

ここを間違ってしまうと、火垂るの墓の清太さんになってしまいますからね。