FIRE批判記事が、話題になっているようです。
いや、不毛の一言ですね。
この手の話は、そもそも議論として成り立たないのです。
判断基準や目的が「個人のきもち」になっちゃってますからね。
「失敗例3:人生の充実度」「FIREは本当に幸せなのか?」の件は、完全に「個人の気持ち」が判断基準になってます。
この記事の目的も「FIREの是非を問う事」ではないですよね。
「FIREが不可能な人」「FIREに嫌悪感を持つ人」をターゲットにし、
「これを読んで、みんな留飲を下げてね!FIREなんて碌なもんじゃないから」
と言わんがための記事です。
つまり、「読者の気持ち」に目的があるのです。
必然、記事を擁護する側も批判する側も、最終的には人格攻撃に行きつくことになります。
「個人の気持ち」が判断基準・目的である以上、そうならざるを得ないのです。
「いい年した大人が昼間っから遊んでて、恥ずかしいと思わねぇのか!」
「会社に頼らないと承認欲求が満たせないなんて、さみしい人生だな!」
もう、目に見えるようですね。
この辺りは、以前記事にした「終わったドラクエ」論と同じですね。
ドラクエで、武器防具の組み合わせを議論するとしましょう。
ここで重要なのが前提条件です。
・「魔王を倒す」という目的
・「攻撃力・防御力」という価値判断基準
を、みんなが共有していること。
この前提条件があって、初めて建設的な議論が可能になるのです。
「いばらのムチ」を買って、グループ攻撃を行うか。
いや「くさりがま」で1点集中攻撃の方が効率いいんじゃね?
いやいや、ここは防具固めようぜ。回復の手間を省いた方が効率いいって。
こんな感じですね。
ちゃんと議論になってます。
さて。
ではここで、魔王が交通事故で突然死したとしましょう(笑)
「魔王を倒す」という目的も、「攻撃力・防御力」という判断基準も消滅します。
「みんなの共通目的」を失った人々は、なにを目的とするでしょうか。
「個々人の幸せ」でしょうね。
すると、価値の判断基準は「自分の気持ち」になります。
・ひのきのぼうって、木の肌触りが素朴で素敵だわ
・ロトの剣って、伝説の勇者が使ってたんだって。すげ~歴史のロマンを感じるぜ!
こんな感じになるでしょう。
露悪的に言えば「自分に都合が良い」ことが価値判断の全て、ということです。
FIRE論と同じ構造です。
ここでは議論は成り立ちません。
前提となる「共通の目的・判断基準」が、「個々人の気持ち」へと拡散されているからです。
何を言っても「それって、あなたの感想ですよね?」となる世界です(笑)
そもそもFIREという思想自体が「みんなで頑張って、みんなで豊かになる」という「社会の共通目的」に対するカウンターですから、「個々人の気持ち」が目的・判断基準になるのは必然ですよね。
しかし、ここで済まないのが人間の厄介なところです。
人間は「意味」を求めます。
人間は、自分の選択こそが「普遍的な価値」を持っていると思いたがります。
…しかし、実際には「普遍的な価値」「絶対的な価値」など、何一つ存在しません。
その時々の「目的」や「環境」によって、価値はころころと入れ替わるのです。
魔王がいなくなれば「はがねのつるぎ」より「ひのきのぼう」が価値を持つこともあり得えるのです。
全ての価値は、相対的だということですね。
俗に言う、価値相対主義です。
筆者のブログは、この考えをベースにして書かれています。
突然ですが、ここで質問です。
読者の皆様は、筆者のブログを読んでいて、いつもどういう感情を抱いていますか?
不快でしょう。
普通の人間ならば、不快に感じるはずです。
「自分に都合がいいか否か。それが全てです」
「物事など、どうとでも言えます。お好きな世界観を、自由に選択して下さい」
「生産力を失った瞬間、人間は子供の口にこんにゃくを詰めだすでしょう」
筆者が使ってきたこれらの言葉は、すべて価値相対主義に基づくものです。
これらの言葉で「普遍的と思われている価値」、つまり世界に存在する「意味」を壊しています。
精巧に作られた「積み木のお城」を破壊し、
カタストロフィの快感を味わった後、
自分で新たなお城を積み上げたかと思うと
それもまた破壊(相対化)し、キャッキャと喜ぶ。
これを繰り返しているだけです。
徹底した「意味」の破壊です。
筆者が、このブログの収益化を目指さない根本的な理由は、ここにあります。
収益化には、みんなの「共感」を集める必要があります。
そのためには、「意味の破壊」ではなく「構築」を行う必要があるのです。
露悪的に言えば「宗教化」です。
「読者の気持ち」を目的にして、あらゆる結論をその方向へ収束させていくのです。
物事はどうとでも言えますから、容易にそれは可能です。
「抽象軸」を操作して「それって合成の誤謬ですよね?」とやるのも手ですね。
ひろゆき氏の得意技です(笑)
先日の記事も、このテクニックを使っています。
ああ、早くも「意味」を壊しちゃいましたね(笑)
…というか、話が逸れちゃったので、戻しますm(__)m
人間は結局、「人それぞれ」では納得できないのです。
普遍性、絶対性を求めてやまない。
ハラリさんも言うように、人は「虚構」を求めてやまないのです。
すると、本来議論が成り立たないはずの「個々人の気持ち」が判断基準になった世界においても、それを行おうとします。
自らの普遍性、絶対性を求めて。
そして必然、それは人格攻撃になるしかないのです。
・「ひのきのぼう」の良さが分からないなんて、鈍い感性だこと!
・「ロトの剣」を否定するなんて、先人に対する敬意が足りない!ロクでなし野郎!
当然、こうなりますよね。
だから、不毛なのです。
FIRE論も同じことです。
・資産2,000万でも不安?臆病者だね。
・人様が働いてる中で遊び惚けるなんて、精神がどうかしているよ。
・まだ承認欲求に捕らわれてるの?古いね。これからは自己実現だよ。
不毛です(笑)
「個々人の気持ち」が判断基準になる分野は、確実に広がっています。
投資についても、そうなり始めていますよね。
「いかにして効率的に資産を増やすか」という「みんなの判断基準」は急速に力を失い、代わって「みんなの気持ち」が基準化してきました。
これが行き着けば、ここでも議論は成り立たなくなります。
「これぐらいのリスクで怯えるなんて、どんだけ臆病者なのw」
また、「議論の人格攻撃化」です。
若者の議論離れが、問題になっていますよね。
思うに、若者は「目的・判断基準の個人化」と、それに伴う「議論の人格攻撃化」を察しているのではないでしょうか。
社会が「共通の目的」を失いかけている以上、それは必然なのです。
ある価値観を突出した形で示す、それがかつて言論活動というものだった。それを知らない世代も増え、ネットによって誰もが発言権を持ち、何を言っても例外があると言われるようになれば、言えるのは玉虫色の社交辞令ばかりである。言論活動は、雑踏を人にぶつからず歩くようなものになった。
— 千葉雅也『現代思想入門』発売 (@masayachiba) 2022年8月5日
この閉塞感を、上手く言語化していますよね。
「言論活動は、雑踏を人にぶつからず歩くようなものになった」って、見事な言い回しです。
そう、この社会で自分を守ろうとすれば、必然「いい人」になるしかないのです。
「いい人」とは「他人の価値判断に一切干渉しない人」のことです。
岡田斗司夫氏の言う、「いい人戦略」ですね。
徹底して「最大公約数」的な言動しか行わない。
他人に「アドバイス」など、もっての外、ということです。
どこで恨みを買うか、分かったものではありませんから。
リアル社会で「いい人」が溢れる代償として、ネット空間では宗教が乱立し、人格攻撃が日常化するでしょうね。
幻の「普遍性・絶対性」を求めて。
ここで上手くやるには、やはり相対主義の立場に立つのが良いと思います。
例えば私が「風丸氏」なら、別アカウントでレバナス批判を行いますね。
私は相対主義者なので、レバナスが良いとも悪いとも思いません。
人それぞれです。
もし、私が本気でレバナスを「良いもの」と思っていれば、この行為には罪悪感が伴うでしょう。
私はそうは思わず、需要(レバナスを信じたいand否定したい)があるならば、それぞれに「意味」を生産して供給すればよいと考えます。
いずれも宗教化すればよいのです。
ここで躊躇していては、まさに最大公約数しか言えなくなります。
「雑踏を人にぶつからず歩く」ような話しかできなくなるのです。
そして、リアル社会では徹底して「いい人」になる。
リアル社会では、リスク回避が最優先です。
…なんだか思いつくまま書いていたら、えらいところが着地点になっちゃいました(笑)