悲しい連絡がありました。
大好きなおばあちゃんが、もう長くはない、とのことです。
おばあちゃんは、今年で98歳になります。
10年前に脳出血で倒れ、半身麻痺になって以来、特別養護施設で暮らしてきました。
その少し前からは認知症も発症し、私の事も少しずつ、記憶から消えていくようでした。
本人にとっては、とても辛い日々だったでしょう。
昔から「ピンピンコロリで死にたいなぁ」と言っていましたから。
おばあちゃんは、この10年間を、私のために作ってくれたのです。
突然いなくなるのではなく、少しずつ、私の前から姿を消していくことで、「覚悟」を決める時間を作ってくれた。
そんな、とても優しいおばあちゃんなのです。
私は小さいころから、大のおばあちゃん子でした。
どこの家でもそうでしょうが、我が家でも「嫁姑」の争いが、大変激しいものでした。
そして、私には幼心にも、その争いの原因の一つが「私」であることに気付いていました。
子(孫)の取り合い、ということです。
私は、自分がどちらかの「陣営」に加わる事で、家族のバランスが崩れてしまう事を恐れていました。
私が取った態度は、姑息にも「中立」だったのです。
争いには関心がない振りをし、双方に同じように接する。
いざ争いが起こった時は、部屋に逃げ込んで耳をふさいでやり過ごす。
そんな、卑怯な子供でした。
母はそんな私を見て、
「あの人(おばあちゃん)に洗脳されてる。私が働きに出ている隙に、お前は洗脳されたんや」と怒りました。
今思えば、母の気持ちも理解できます。
父は非常に安月給でしたし、家族を経済面で支えているのは実質的に母でした。
看護師として夜勤もこなし、最終的に身体を壊すまで働き続けました。
ーここまでしているのに、なぜお前は私の味方をしてくれないのかー
そんな思いだったのでしょう。
しかし、当時の私にはそんな度量はなく、ただただ、理不尽な思いを感じていました。
対して、おばあちゃんは私の前では「良い家族」を演じてくれました。
お母さんはあんたのために、一生懸命遅くまで働いてくれてるんやで。感謝せなあらんよ。
その態度、その言葉が、当時の私には救いでした。
私は、おばあちゃんの前でだけは「ありのままの自分」で寛ぐことが出来ました。
私にとって「暖かい家族の思い出」は、おばあちゃんなしでは決して成り立たないものだったのです。
すいません、きれいな思い出を書くつもりが、暗い話になってしまいましたね^^;
おばあちゃんは、私が郵便配達員になった時も、とてもとても喜んでくれました。
大抵の人には「大学まで出て郵便配達?」と言われましたからね(笑)
辛い時も「辞めたら、ばあちゃんが悲しむ」と思うと、頑張れました。
仕事が早く終わった時は、ヨーグルトやらグレープフルーツ(おばあちゃんの大好物)を買って帰り、ばあちゃんに食べさせるのが楽しみでした。
喜んで、美味しそうに食べる顔を見るのが幸せでした。
認知症が進み、私の事を認識できなくなってからも、ヨーグルトを食べさせると嬉しそうな顔をしていました。
コロナ禍で面会が出来なくなってからも、毎日のヨーグルトだけは自分で届けました。
美味しい、と喜んで食べてくれた顔を思い出して。
そのヨーグルトも含め、食べ物を受け付けなくなった、と連絡があったのが数日前の事です。
老衰の症状みたいです。
代謝異常により、食べても食べても痩せてゆき、やがて受け付けなくなる。
とても悲しいですが、受け入れるしかないです。
調べたところによると、老衰は全く苦痛なく、眠るように逝くそうです。
おばあちゃんは、最期まで私を気遣ってくれたのです。
おばあちゃんが苦しむ姿など、私には耐えられなかったでしょうから。
おばあちゃんがくれた10年の間に、私は奇跡的にも愛する人と出会い、一緒になることが出来ました。
私にとっても、妻にとっても、お互いに掛け替えのない人です。
本当に奇跡だと思います。
おばあちゃんは、認知症が進んで私が分からなくなってからも
「お前、結婚したんか?はよ~結婚せなあかん」
と、突然真顔で話しだすことがよくありましたよね。
心配かけて、ごめんね。
結婚式に出てもらえて、本当にうれしかったです。
しばらくの間、寂しいやろうけど、待っててね。
じいちゃんも、そっちにいるしね。
みんなもいずれ、いくからね。
今度こそ、みんな仲良く暮らそうね。