こんばんは!
サイコパスの郵便屋さんです。
自宅待機2日目となりました。
いや、ひたすら一日中部屋に閉じこもるのは、ありえないですね。
思考がどんどん内向きに、内省的になっていくのです。
やはり人間の本質は「生産」なのですね。
改めて認識しました。
そういう訳で、今日は内省的な気分にふさわしく、この本を紹介します。
週刊誌等で「医師が望む最期の迎え方」的な特集が組まれると、大抵の医師は「がん」を望ましい死に方として挙げるそうです。
世間にはポックリ死を望む人も多いが、実際のポックリ死にはさまざまな弊害がある。
何の段取りもせず急死するから、周囲に多大な迷惑をかける。
本当の突然死ならいいが、心筋梗塞にしても脳梗塞にしても、発作が起こってから死ぬまでにわずかに時間がある。
その時にしまったと思っても取り返しがつかない。
その点がんなら、死ぬまでに結構な時間がある。
自分の人生を整理し、様々な感慨にふけることもできる。
比較的最後まで意識は明瞭だし、余計な延命治療さえしなければ肉体的な苦痛も少ない。
最大の利点は、確実に死ねることで、長生きしすぎて思わぬ苦しみに遭う危険を免れる。
ここで重要なのは、最後の部分(最大の利点は~)です。
筆者も含め、現代人は「健康長寿」を金科玉条にしがちですよね。
しかし、久坂部氏は現役医師として高齢者医療に携わってきた経験から、こういった単純な「善悪二元論」に警鐘を鳴らします。
世間では長生きを良い事のように言う人も多いが、実際の長生きは辛く、過酷なものだ。
足腰が弱って好きなところにも行けず、視力低下で本も読めず、聴力低下で音楽も聞けず、味覚低下で美味しいものもわからず、排せつ機能も低下し、おしめを付けられ、風呂も毎日入れず、容姿も衰え、何の楽しみもなく、周りの世話にばかりなる生活が「長生き」の実態だ。
これで認知症にでもなればまだましだが、頭がしっかりしていると、つらい現実がすべて認識され、家族やヘルパーに世話になる心苦しさに耐えなければならない。
以前、私が在宅で診ていた95歳の女性が、しみじみとこう言った。
「先生。私は若いころ、毎朝体操をすると長生きできると聞いて、一生懸命やりましたが、あれが悪かったのでしょうか」
「長生きしすぎです。家族に迷惑ばかりかけていて、ほんとうにつらいです。何のために生かされているのか。早く楽になりたいです」
そして「長生き」の過酷さは、介護する家族にも襲い掛かります。
在宅医療の現場にいると、介護の過酷さが並大抵ではないのがわかるからだ。
これまでどれほどの介護者が、相手に「死んでほしい」と思っただろう。
(中略)
「このままだと、介護がいつまで続くかわからない。何年も続くようになったら、わたしの人生が途切れてしまう」などと言って顔を覆う。
夫が死んで喜ぶとはなんと薄情な、とは思わない。
認知症介護の過酷さは、どんなヒューマニズムも削り取るカンナのようなもので、たぶん釈迦でもキリストでも耐えられないだろう。
大切な家族が死んでほっとするというのは、認知症介護の厳しい現実で、それは紛れもない事実だ。
そして氏は、認知症や老化を「あきらめる」事から「より良い介護」がスタートすると述べます。
「希望」を持つことこそが、「良くないこと」だと。
認知症や老化を「治したい」「元に戻したい」「悪化を少しでも食い止めたい」といった考えに「執着」すると、家族や本人はより苦しみ、より状況を悪化させることになる。
なぜなら現代の医学では、認知症を予防・治療することはおろか、「よりまし」な方向に持っていく試みすら、すべて失敗しているからです。
老化防止についても、はっきりとしたエビデンス等皆無でしょう。
であれば、我々にできることはただ一つ。
「認識」を変えることです。
認知症にならない、健常な状態を「善」と決めつけることから「不幸」が始まる。
そうではなく、ありのままを、すべて受け入れる。
これしかないのです。
とはいえ、人間にとってこれは至難です。
なぜならば、人間の本質は「生産」だから。
人間は本能的に「生産」が出来ない状態、そして「生産」しない者を「悪」と認識してしまうのです。
逆に言えば、だからこそ人間社会はここまで発展できたのでしょう。
現代においては、しばしば無理やりな「延命治療」が行われますよね。
「少しでも長生きしてほしい」
そのような「家族」側の思いが、そうさせるのでしょう。
しかし、そこでは肝心の「患者本人の気持ち」は無視されています。
氏によれば、肋骨が骨折するほどの心臓マッサージをされ、大量の強心剤を流し込まれ、想像を絶するような苦しみの中で、患者は延命させられています。
これも結局は「生産性のない患者の気持ち」なんかより「生産性につながり得る家族の気持ち」の方が尊重されるべきである、という本能的な「思い上がり」が原因でしょう。
この「生産」という人間の本質と、「諦め、受容」という認識の矛盾に、筆者は絶望的な気持ちになってしまいます。
本当に「生産」という本能を捨て「すべてをありのままに受け入れる」ことなどできるのか。
事実、氏の父親も仏教的な考えが好きで、普段から「執着を捨てる」ことを意識し、地位や名誉にも一切拘らず、人生を達観していたかのように見えたそうです。
しかし、実際に死を前にした氏の父親は「小さい頃の思い出」や「文章」など、「自分の生きた証」を残してほしい、と氏に頼みだします。
それは、あなたが嫌っていた「執着」そのものではないか。
氏がそう言うと、父親は「まだ生煮えや」と悲しげに、力なく答えたそうです。
「達観」したかにみえても、いざ死を目の前にすると、人間は容易に揺らぐのです。
結局、これらを全て解決するには「ドラッグによる脳内物質コントロール」しかないように思えます。
マインドフルネスをドラッグにより汎用化するのです。
人間が「生産」の呪縛から解放されるには、その「生産活動」の極致で生み出される「ドラッグ」というテクノロジーに頼るしかないのです。
はは、なんという皮肉でしょうか。
そして同じことは、これからの日本社会にも言えます。
少子高齢化という「病」は、受け入れるしかないのです。
いくら一生懸命に努力しても、一歩ずつ、確実に日本経済は悪化していくでしょう。
昨日より今日、今日より明日が、必ず「悪く」なっていくフェーズなのです。
このような状況において、我々はそれを「ありのまま」に受容できるのか。
「生産」をあきらめることが出来るのか。
日本という国家の「老化」と自分自身の「老化」が重なってしまった、我々世代の重い宿題になるでしょう。