こんばんは!
サイコパスの郵便屋さんです。
配達の仕事をしていると、毎日のように交通事故の話を聞きます。
最近は全車にドラレコが付いているため、事故の瞬間を映した映像がたちまち全国に配信されるんですよね。
これをミーティングで見るのですが、なかなかエグイものがあります。
先日見たのは、
大型トラックのすぐ後ろを追従中、交差点に差し掛かる
→信号機がトラックで見えないため、赤信号で交差点進入してしまう
→横断歩道を走ってきた少年を撥ねる
という事故です。
ゾッとしますよね。
自分が当事者だったら、と考えると。
公務員時代においては、警察、消防及び自衛隊を差し置き、郵政が殉職率トップだったと聞いています。
最近特に増えてきているのが、
優先道路走行中に、一時停止を無視して突っ込んできた車と衝突
ってやつです。
10年ほど前に、筆者の地元でもありました。
この事故も、後続車のドラレコ映像がYouTubeにアップされていました。
積んでいた郵便物が10メートル以上も宙に舞い、
配達員も、バイクから投げ出されて。
衝撃の強さを物語っていました。
配達員は意識不明の重体とのことでした。
交通事故は本当に恐ろしい
筆者も、タイミングが一瞬ずれていたら死んでたな、という経験が何度かあります。
田んぼの狭い農道を右折しようとしたところ、後方から猛スピード(時速100キロは優に超えていた)で抜かれたのです。
右折するのが、あと0.5秒早かったら死んでいたでしょう。
優先道路を走行中、狭い脇道から軽トラが突っ込んできたこともあります。
筆者の目と鼻の先を、加速しつつ横切っていきました。
バイクはどうしても見落とされがちなんです。
FIREだなんだと計画したところで、一瞬のタイミングの差ですべてがご破算です。
それまでの努力、頑張り、将来の夢、わくわくどきどき。
それらが、一瞬にして水泡に帰すのです。
実際、定年退職の当日に事故にあい、半身不随の寝たきりになった人もいました。
その人の気持ちを考えると、やりきれません。
資産が増えただの減っただのは、本当に些末な話ですよね。
「何がどうなろうと、たいしたことはありゃあせん」ということです。
五体満足で動ける身体、そして生命さえあれば。
最終的にはすべて「賭け」である
俺はきっちり交通ルール守ってたんだ。お前、一時停止無視しただろ。お前が責任取れ!
そう思いたくなる気持ちは、大変わかります。
相手が交通法規を破ったのが明白ならば、法律上は責任を負わせることは可能でしょう。
しかし、それでも時間は不可逆です。
事故そのものを「無かったこと」にはできない。
五体満足な自分に戻ることは、決してできないのです。
「交通法規」という、物語(虚構)上の責任は相手が負ったとしても、事象そのものは自己責任ということです。
交差点を青信号で直進する場合も、周囲の車・通行人が
・交通法規を認識していること
・それを守る意思と能力があること
・信号が赤であることを認識していること
・ブレーキとアクセルを踏み違えないこと
といった諸々の諸条件を、全員が満たしているという「賭け」であることを忘れてはなりません。
相手がもし、赤信号を無視して時速100キロであなたに衝突したとしても、それはあなたの自己責任だということです。
「相手が交通ルールを守る」という賭けに負けたのです。
残酷で理不尽な話ですが、事象としてはそうなのです。
あなたの生命、五体満足な体は二度と戻らないのですから。
そう考えると、私たちの社会・生活全体が「賭け」の連続であることに気付きます。
コンビニでお金を払ってコーヒーを買う。
相手が「お金」という紙切れにコーヒーと交換し得る価値を「認識」している、という賭けです。
会社に出勤して働く。
これも、人々が「会社」という虚構に「所属」していると「認識」していることに賭けていますよね。
物理的には「会社」など存在しません。
妻が私のために美味しい夕食を作って待っていてくれる。
これも「家族」という虚構を「認識」していることが前提です。
実際には「私」と「あなた」という人間が、個別に存在しているにすぎないのです。
すべては、最終的には「賭け」なのです。
「賭け」の勝率が極めて高いので、普段は意識することはありません。
相手が認知症等によって「認識」を喪失した場合、すべては瓦解します。
今後、高齢化が進行するにつれ、認知能力の低下に起因する交通事故は急速に増えてゆくでしょう。
現在でも、高齢者によるアクセル踏み違いの事故が多発していますよね。
厚生労働省によると、65歳以上の4人に一人が認知症予備軍とのことです。
「交通ルールを守る」「他人に迷惑を掛けない」といった「常識」という名の虚構。
これを「認識」しなくなりつつある人が増えていく、ということです。
青信号になったから交差点を進む。
この「賭け」の勝率は、今後徐々に下がっていくでしょう。
それまでの社会・生活で「あたりまえ」だったことが、次第にそうではなくなっていくでしょう。
そして何より恐ろしいのは、こうした状況に対して世間がどう反応するかです。
高齢者バッシングに繋がるのではないでしょうか。
現代の「姥捨て山」が生まれかねません。
エーザイが社運をかけて開発してきた、世界初のアルツハイマー症治療薬アデュカヌマブ。
筆者も大変期待していたのですが、残念ながら順風満帆とはいかないようです。
筆者自身も、やがて高齢者と呼ばれるようになるでしょう。
その時、認知症にならない保証は何一つありません。
その時、私は「姥捨て山」に捨てられることになるのでしょうか。
これも結局「賭け」なのでしょう。