こんばんは!
サイコパスの郵便屋さんです。
ロシア軍による、残虐行為が続々と報道されています。
ロシアは、非常に分かり易い「絶対悪」の役回りに、自ら志願したとも言えます。
こんな事したら、世界中を敵に回すのは分かり切ってるのに。 プーチンはリスクとリターンの計算もできんアホなんやろか。
そう思いますよね。
「損得」をベースに物事を考えれば、戦場の映像がたちまち全世界に報道される現代戦において「虐殺」を行う事が、いかに悪手であるかは一目瞭然です。
虐殺は、コスパが極悪なのです。
しかし人類の歴史を紐解いてみれば、そこには数多くの虐殺が存在しています。
近代に限っても、ナチスによるユダヤ人虐殺や共産主義国家における自国民虐殺が挙げられます。
ヒトは、何故同種を虐殺するのか。
今日は、それを考えてみたいと思います。
ヒトとチンパンジーだけが「同種のオトナ殺し」を行う
捕食のため、自己防衛のため、あるいは子供を守るために、動物が別種の動物を殺すことは一般的です。
しかし、同種殺しを行う動物は限られます。
ネイチャー誌に掲載された記事によると、同種を死に至らしめる暴力は、哺乳類が進化するほど増加する傾向があったそうです。
科学者たちは、トガリネズミから霊長類まで、1000種以上の哺乳類の約400万件の死の記録から、このような恐ろしい行動の証拠を探し、人間の殺人の歴史もまとめてみた。
すると、1つのパターンがはっきりと浮かび上がった。相手を死に至らしめる暴力は、哺乳類が進化するにつれて増加していた。同種間での争いで死んだ哺乳類は全体の0.3%しかいなかったにもかかわらず、霊長類ではこの数字が6倍の約2%となる。同様に初期人類も約2%で、これは旧石器時代の人骨に残されている暴力の痕跡の割合とも一致する。
National Geographic(2016.9.30)の記事より引用
そして、「同種殺し」が多い霊長類の中でも、チンパンジーとヒトだけが「オトナの同種殺し」を行うのです。
https://psych.or.jp/wp-content/uploads/old/77-5-8.pdf
興味深いことに,集団内,集団間のオトナ殺しが見られるのは,ヒト以外ではほぼチンパンジーに限られている。戦いで負った傷がもとで死に至るという例はあっても,チンパンジーのようにとどめを刺すところまで執拗に相手を攻撃する行動は,他の種にはほとんど見られない。
(中略)
同種内でチンパンジー以上に激しい攻撃性を見せる動物はといえば,やはりヒトをおいてほかにない。
(中略)
民族間,国家間の戦争はチンパンジーで見られる集団間の殺しの比ではない。
(中略)
チンパンジーとヒトで,他ではほとんど見られない集団内,集団間のオトナの殺し合いが見られるもうひとつの理由に,時間的,空間的広がりに対する認知能力の進化がある。多くの動物は「今の」「ここの」利益を求めて争い,それが確保されれば攻撃性のエスカレートは起こらないが,チンパンジーとヒトでは「将来の」「あそこでの」利益を求めて争うのだ。
京都大学霊長類研究所教授 古市剛史「ヒト科に見る殺しの進化」より引用
つまり、動物が「オトナの同種殺し」を行うには、「今ここの」から「将来のあそこの」という認知能力の高度化が必要だという事です。
「時間」と「空間」の理解です。
「今ここの」利益だけを考えるのならば、相手を痛めつければ済むことです。
殺すのであれば、死に物狂いの反撃を受けるリスクもありますからね。
しかし「将来反撃を受けるリスク」「相手の縄張り(空間)を奪うリターン」を考えれば、殺すことに合理性が認められる、ということです。
同種の大量虐殺に必要なのは「理性」である
「オトナの同種殺し」に「認知能力の進化」が大きく関わっている。
では「チンパンジー」と、それを遥かに超える「オトナの同種殺し」を行うヒトを隔てるのは何か。
それは「理性」ではないでしょうか。
日本大百科全書によると、理性とは「物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力」とあります。
はい、では「善と悪」とは何でしょうか。
何をもって善悪を区別するのか。
それは事象と事象を因果律で繋げた「物語」によって区別されます。
「国家のため」「民族のため」「歴史的必然の法則のため」
物語(虚構)によって「自らが善」だと確信した時、人はどこまでも残酷になります。
人は「野蛮な本能」によって虐殺を行うのではない。
虐殺を行うのに必須なのは「理性」です。
いくつか事例を見てみましょう。
共産主義は、その好例です。
共産主義がもたらした悲劇は、まさにこの「理性(理論)」への盲信が根底にありました。
連合赤軍「山岳ベース事件」
連合赤軍といえば「あさま山荘事件」が有名ですが、今回の趣旨においては「山岳ベース事件」がより重要です。
連合赤軍メンバー29人中、実に12人が「総括」の名の下に同志によって惨殺された事件です。
リーダーである森恒夫は、過酷な革命闘争を闘い抜くためには、日常の行動一つ一つを「総括(自己批判)」し続けることで「共産主義化された革命戦士」を育成することが必要だと考えました。
・指輪をしていた。
・髪を必要以上に伸ばした。
・銭湯に入った。
・〇〇とキスをしていた。
このような些細な行動が「総括」の対象となり、殴る、蹴る、断食させる、零下十度の屋外に縛り付ける、など、凄まじい暴力が加えられ、結果として12名もの犠牲者を出しました。
加害者は、京大、早大、横浜国立大等、有名大学に在籍するインテリ達です。
そして一番恐ろしいことは、これらの行為が「理性」と「善意」によって行われたことです。
彼らは本気で「総括」によって同志の「共産主義化」を成し遂げようと、一生懸命「手助け」していたつもりだったのです。
当時未成年だった少年(加藤倫教)は、総括対象となった実の兄を、泣きながら懸命に殴り続けたといいます。
どうして総括できないんだよ!早く総括してよ!
兄が内臓破裂で死んだとき、少年は最高幹部である永田洋子の胸に顔をうずめて泣き叫んだといいます。
永田洋子は、彼に兄を殴るよう命じた張本人です。
つまり、彼は最後まで「総括による共産主義化」と「それに耐えられずに敗北死した兄」という「ロジック」を信じていた。
「理性」と「善意」によって、実の兄を殴り殺したのです。
彼らは恐ろしく生真面目に、彼らの「ロジック」に従い続けました。
妊婦であった仲間を総括で殺した際には、
「赤ん坊には罪はないのではないか。我々で育てるべきだ」
と、慌てて死体から赤ん坊を「取り出そうと」しました。
それに失敗すると、
「こいつは死ぬことを隠していた。我々の子供を私物化したのだ」
というロジックで、死体を糾弾し続けたといいます。
想像しただけでうすら寒くなる光景ですよね。
彼らは、あくまで「彼らなりのロジック」に忠実でした。理性的でした。
本能で実の兄を殴り殺すなど、決してできません。
理性と善意によって、それは可能になったのです。
事件後、加害者たちは獄中で数多くの「事件の総括」本を執筆しています。
筆者は一通り目を通しましたが、特徴的なのは「同志殺し」を「手段の誤り」と捉えている点です。
共産主義思想が、もう少し抽象化していえば「理性とロジックへの妄信」が同志殺しの原因だとは、決して認めないのです。
これは、彼らを裁く側の「社会」も同じでした。
裁判所は、主犯の一人である永田洋子への判決文で
永田個人の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」
「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」
を事件の原因として挙げたのです。
現代なら大問題になりそうな判決文ですよね^^;
なぜこのような判決文になったのか。
それは「こちら側(社会)」と「あちら側(悪辣な殺人集団)」を明確に区別する必要があるからでしょう。
ヒトはロジック(物語)によって「自分達とは異質」と認めた集団に対しては、どこまでも攻撃的になれるのです。
「理性とロジックへの妄信」が原因だとしてしまえば、「こちら側」もトバッチリを受けかねませんからね。
クメール・ルージュ(ポルポト派)の子供たち
クメール・ルージュ(カンボジア共産党)のポルポトは、子供しか信用しませんでした。
大人たちは「旧世界(革命前)の知識」によって汚れている、という論理です。
少年少女達に徹底して共産主義思想を教育しました。
忠実な「兵士」となった子供たちは、自宅の床下に潜り込み、両親の会話を盗聴し、「オンカー(党組織)」に密告しました。
実の両親を収容所送りにし、絶命させたのです。
子供達の目は、達成感と誇らしさによりキラキラと美しく輝いていたといいます。
素直に本能に従えば、子供は親に甘えたいものでしょう。
実の親を収容所送りにし、喜ぶ。
理性(ロジック)は本能を超える力を持つ、ということです。
わずか数年で、カンボジア国民の4人に1人が殺されました。
異様な人口ピラミッドに、その爪痕が残ります。
ポルポト個人は「とても感じのいい、善人にしか見えない人」だったそうです。
フランスへの留学経験を有するインテリでもありました。
高度な教育を受けた善人が、理性に基づいて一生懸命取り組んだ結果が「自国民大虐殺」だったのです。
演繹的な物語による総論思考
①演繹的な物語による総論思考
②独裁制
です。
これがセットになった時、高確率で虐殺が発生するように思います。
共産主義には①歴史的必然の絶対法則 ②スターリン、毛沢東、金日成etc。
がありました。
因果律に基づいた演繹的物語を、総論的に現実社会に適応すると、必ず矛盾が生まれてきます。
社会は複雑系です。
一つの物語ですべての説明などつかないのです。
通常の民主社会ならば、ここで軌道修正を図る力が働きますよね。
民主社会には、事象を帰納的に捉え、より全体最適化する力があるのです。
しかし、ここで独裁制だとどうか。
「現実」の方を否定してしまうのです。
認知的不協和の解消、ですね。
「自らの認知(物語)」と「現実」の間で矛盾が生じると、人は不快になります。
どちらかを修正する必要があります。
この時、独裁制社会ならば「現実」を否定する力を持っている、ということです。
物語=ロジックの方を絶対化し、守ってしまうのです。
僕たち投資家にも経験がありますよね。
自らのロジックに基づいて、株を買う。
しかし、現実に株価は下落していく。
この矛盾に対し、一番やりがちなのは「現実を否定する」ことです。
季節的な需給要因による売りだ、機関投資家の換金だ、この株の良さを理解しないバカが多いからだetc
投資家は自分一人の判断(独裁)で行動しますから、「現実を否定」することが可能なんですね。
これは、独裁国家が自らのロジックを絶対化し、「不愉快な現実」を否定(虐殺)するメカニズムと同様だと考えます。
やはり「自由」と「民主主義」しかない
「自由と民主主義」社会とは何か。
一言で言えば「個々人の欲望が主役の社会」という事になるでしょう。
自由主義とは、「個々人の欲望」によって資本を配分し、「生産」を行う事。
民主主義とは、「個々人の欲望」によって生産物を「分配」する事。
こんな感じですかね。
「個々人の欲望」が主役ですから、そこには「筋道が通ったロジック(物語)」は存在しません。
つまり、自由と民主主義は、「社会」を「筋道が通った論理的思考ができないアホ」にすることで「理性への妄信」への罠を回避するシステムと言えるでしょう。
無数のトライ&エラーにより、常に軌道修正が可能だという事です。
民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが。
これはチャーチルの言ですが、筆者はこのような文脈で理解しています。
さて、ヒトがヒトを虐殺するのは何故か、という主題に戻ります。
ヒトはヒトだけが持っている「理性」によって「ロジック(物語)」に捕らわれ、妄信することでそれは発生する。
これが筆者の結論です。
ロシアで今起きている虐殺も、中国における独特の残虐性(また別途記事にします)も、それは決して「彼らが野蛮だから」でも「指導者が悪人だから」でもありません。
そこには必ず、彼らなりの「内在的論理」が存在するはずです。
本能的な野蛮さで同種を大量虐殺できるほど、ヒトは強くありません。
本能を抑える「理性」によって初めて、それは可能になるのだと考えます。