こんばんは!
サイコパスの郵便屋さんです。
筆者の地元でも、桜が満開になりました(^^)/
ただ、今日は少々暑すぎましたね"(-""-)"
桜に夏日は似合いません。
新たな出会いへの期待と不安が交錯した、
澄清なる青の空気感こそが相応しいのです。
筆者は、日本の四季を演出する神様を高く評価しています。
しかし、今日の演出は失敗ですな"(-""-)"
お天気担当の神様と、ちゃんと調整して欲しいものです。
3月は「別れ」の月。
4月は「出会い」の月。
筆者の地元では、例年4月上旬に桜が満開になるため、桜は「出会い」のイメージなんですね。
対して、太平洋側の地域では3月下旬に満開になるようです。
ということは、この地域では桜は「別れ」のイメージが強いのではないでしょうか。
面白いですよね。
全く同じ「桜」を見ているのに、ある人は「出会い」を、またある人は「別れ」を想起するのです。
これって結構大きいことだと思うんです。
筆者は、日本人のアイデンティティーやメンタルを形成する上で「四季」が重要な役割を果たしていると考えています。
日本人のアイデンティティーとは何か。
何をもって日本人とみなすのか。
それは「無常観」ではないでしょうか。
無常とは、常ならざること。
物事は常に移り変わっていき、ずっと同じもの、確かなものなど何一つない、ということです。
「一期一会」という言葉もそうですよね。
何気ない、ありふれた日常であっても、その瞬間と同じ時間は二度と訪れない、かけがえのないものです。
この「無常」という独特の世界観(哲学)を、日本人は四季の流れを通して、身に染みて理解しているのではないでしょうか。
そして「桜」は、その無常観の象徴です。
華々しく咲き誇ったかと思えば、一夜の夢のごとく、サッと散ってゆく。
後に残るは、何事もなかったかのように、新緑の木々だけ。
そして、この桜が「別れ」の月に咲くか、「出会い」の月に咲くか。
日本海側と太平洋側では人の気質が全く異なりますが、この桜の開花時期の違いも大いに影響していると思います。
西欧人には理解できない「無常観」
空が高すぎる ただそれだけで
言葉を無くして 立ち尽くした日々
誰もがみんな 輝いていた
それぞれの笑顔で それぞれの涙で
僕らはいつでも 同じ夢を見てた
やがてそこには
もう誰もいなくなる
今通り過ぎた あの青い風が
心をあの頃へ 運んでゆく
空が高すぎる
小田和正作詞「空が高すぎる」より引用
小田和正の1stアルバムに収められた、短い曲です。
海外の有名ミュージシャンを結集して録音されたそうですが、小田和正が必死に歌詞の意味を伝えようとしても、理解されなかったそうです。
僕たち日本人が見れば、一目瞭然ですよね。
「変わってゆく僕等」と「超然と変わらない、澄み切った秋の空」。
そこには、諸行無常、諦念があります。
諦念といっても、ネガティブな意味ではありません。
まあ、これを読んでいる方は日本人でしょうから、言わなくとも理解できるでしょう。
そう、こういった感覚を共有できるか、という事なんです。
日本人である、ということは。
筆者ははっきり言って、日本人の「同調圧力」は反吐が出るくらい大嫌いです。
それはもう、このネタだけで5,000字クラスの記事が書けるくらいに(笑)
しかし、そんな筆者でも、やはり日本人なんですね。
この「無常観」「諦念」というものが、魂に刻み込まれているのです。
すべては、なすがままに。
そして、それは遺伝子の問題ではないですね。
やはり、日本に住んで、壊れてゆく季節を、生まれ変わる季節を慈しみ、そして諦めないと。
人の一生は、季節に例えられます。
青春、朱夏、白秋、玄冬
若く、初々しい青春
志を朱く燃え滾らせて、道を切り開く朱夏
下り坂を、ゆっくり静かに下る白秋
そして一人、孤独へと旅立つ玄冬
還らざる時の終わりに、僕は何を思うのか。
すべては、なすがままに。