疎外の果てに、僕等は何処へ向かうのか

こんばんは!サイコパスの郵便屋さんです。

先日、三菱氏が株式投資における疎外について言及されていました。

 

今の資産が当たり前になって、いつのまにかそこが “スタート地点” になっていて、もっともっと欲しいと。

今あるもの・金額への有難さなどそっちのけで、上へ上へと、何ものでもない何かを追いかけているような感じでしょうか。

(中略)

それはもう自分ではなくお金が主体になっているのではないかと。言ってしまえば、お金が絶対的とまでは言わずとも、自らを規定する尺度のようになっているのではないかと。

疎外とは、本来自分が豊かになるために作り出したはずの事物が、逆に自分自身を支配するようになり、結果として本質を見失う現象をいいます。

マルクスが資本制社会を批判する概念として考えたものです

具体的には、商品、資本、機械、そして貨幣等ですね。

 

株式投資についても、

・自由を獲得するため

・家族を守るため

・安心な老後のため

等、人それぞれの目的があったはず。

手段であったはずの資産額が、いつの間にか目的化してしまってるんじゃないか。

自由のためだったはずの資産額に、逆に自分自身の人生が縛られてるんじゃないのか。

三菱氏は、このような疎外に対して警鐘を鳴らしたわけです。

ええ、筆者も耳が痛い面がありますw

 

しかし、そもそも「疎外」とは一体どのようなメカニズムで発生するのでしょうか。

マルクスは、労働における疎外は、資本制社会の「分業」によって発生すると考えました。

労働工程をバラバラにして、その一部をひたすら反復する。

労働者は、機械の歯車のようになってしまい、「モノを作り上げる喜び」「受け取った人に喜んでもらう喜び」が失われる、というわけです。

まあ納得なのですが、しかしそれだけでは説明できない疎外もあるんですよね。

今日は、この疎外について考えてみたいと思います。

 

年賀はがき販売活動における疎外

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郵便配達員には、配達だけではなく「販売活動」もあります。

一番きついのが「年賀はがき販売」です。

現在でこそ、(色々あってw)ノルマはなくなったのですが、かつては役職に応じて一人1~2万枚の「指標」がありました。

そもそも、なぜ独占商品を配達員が外販しないといけないのか。

それは、いわゆる「御用聞き活動」のためです。

なかなか年賀はがきを買いに行けない、遠方のお客さん等にお届けしてあげよう、という事です。

まあ、表向きの理由ですw

とはいえ、実際にそういう方はいらっしゃるので、例え数十枚でも喜んでいただけると、こちらも嬉しい。

助けったわ~。歳とると、なかなか買いにいけんでの~。

労働本来の喜びが、ここにはあるわけです。

そこに疎外はない。

しかし、こういった「なかなか買いに行けなくて困ってる人」というのは、一人暮らしの老人等です。

せいぜい10~20枚程度しか買ってもらえません。

対して、ノルマは1~2万枚です。

こんなことしてたんじゃ、とても追いつかない!もっと効率よくしなきゃ!

年賀はがきを効率的に販売するには、

・大家族世帯

・会社の重役がいる世帯

・公務員夫婦世帯

・会社

こういったターゲットが狙い目になります。

しかし、美味しいターゲットは当然取り合いになるので、みんなが営業を掛けに行く。

お客さんも辟易顔です。

また来たの?あなたで5人目よ!ってな感じですw

 

注文枚数が思ったより少ない場合には

ごめんなさい!50枚以上から外販できるんですよ。窓口でお買い求めください。

費用対効果を考えると、こうなってしまうわけです。

さて、お気づきでしょうが、ここで疎外が発生していますよね。

お客さんに喜んでもらう、という本来の目的はどこへやら。

いつの間にか「販売枚数」を積み上げること自体が目的になってしまうのです。

ブログ執筆における疎外

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これは、当ブログをご覧の皆様ならご存じですねw

筆者は、自分のものの見方、考え方、切り口等を面白がってもらいたかった。

これが、ブログを始めた目的です。

お金が目的ではありません。

(あ、決して収益目的の方を否定する訳ではありませんよ)

しかし、せっかく書くからにはたくさんの人に見てもらいたい。

この思いがエスカレートし、いつの間にかアクセス数が目的化してしまう訳です。

こうなると、ブログ内容が「あるべき姿」に規定されてしまう。

自己表現として始めたブログに、逆に支配されるのです。 

これは他のSNSでも同様ですね。

「いいね」「フォロワー数」が目的になると、あるべき姿がほぼ規定されてくる。

一文を簡潔に、インパクト強く、二元論に持ち込んで断言し、みんなにこまめに「いいね」「リツィート」し、悪口は決して言わず、アイコンは小綺麗にetc

いい人戦略、ですね。

もはや人格の商品化と言えるでしょう。

数字は「究極の抽象」であり、疎外は「数字が目的化」することで発生する

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商品、資本、機械、そして貨幣。

疎外を生み出す原因となるものです。

さて、これらの共通点はなんでしょうか。

 

これらはすべて、具体的事物が抽象化されたものです。

・商品=自然物を「使用価値」で抽象化したもの。

・資本=土地、労働、貨幣等を「生産手段」で抽象化したもの。

・機械=人間の労働を「一部の反復運動」で抽象化したもの。

・貨幣=モノやサービスを「交換価値」で抽象化したもの。

こんな感じでしょうか。

そしてさらに、これらは「数字化」された上で使用される、という特徴をもっています。

「機械」は少々わかり辛いですが、「生産効率」という点で数字化されますよね。

1時間に〇〇個製造できますよ、という感じです。

 

数字は、究極の抽象化です。

りんごが一つ、みかんが一つ、合わせて何個?

これを、2個と認識出来るのは人間だけです。

抽象化は人間にしか出来ない能力なのです。

抽象化とは、複数の事象の共通する要素を抽出すること。

逆にいうと、その他の要素を全て捨象、つまり捨てることです。

りんご、みかんには味、香り、色、育った環境、生産地等、多くの個性を持っています。

オンリーワン、世界に一つだけのりんご、みかんです。

しかし、数えて数値化するという事は、「個数」以外の要素を全て捨て去ることを意味します。

アクセス数もそうですね。

ブログを読んで、楽しんだ人、腹が立った人、悲しんだ人、そもそも読んでない人、老若男女、国籍、環境、様々です。

しかし、これらの要素は全て捨てられ、アクセス者1としてカウントされる。

よくよく考えると、抽象化とは怖い事なのです。

 

現代社会は複雑化しています。

複雑化した社会に適応するには、抽象化能力が必須です。

人間がここまで豊かになったのも、抽象化能力のおかげだと言えます。

しかし、抽象化・情報化した社会に合理的効率的に適応しようとすると、自らを抽象化せざるを得ません。

自らを「入れ替え可能化」「計算可能化」していく。

岡田斗司夫の言うところの「いい人戦略」とはまさにこの事です。

その一方で「本当の自分」は抑圧され、いつしか「からっぽ」になっていく。

これが、疎外のメカニズムだと思います。

それは、「数字」という究極の抽象を目的とした時点で、すでに始まっています。