2.26事件についてお話してまいりました。
最終回である今回は、2.26事件に強く影響を受けた三島由紀夫の観点を通して考えていきたいと思います。
勘のいい方は、記事タイトルの時点でお見通しだったでしょう。
彼は、2.26事件とその首謀者である磯部浅一を極めて高く評価していました。
三島は、2.26を通じて何を見ていたのか。
今日は、そのお話です。
三島由紀夫と天皇
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫著「果し得ていない約束ー私の中の25年」より引用
あちこちで引用される、有名な文章です。
「からっぽな日本」とは何か。
宮台真司に言わせると「クズ人間」ですw
「日本人は本質的にクズ(※)なので、三島はからっぽさを埋める手段として(絶対的参照点としての)天皇が必須だと考えた」という解釈です。
※ちなみに宮台の言う「クズ」とは、周りの空気を読んで行動する「いい人」のことです。本能より理性を優先する合理的人間ともいえます。合理的=行動が機械的=入れ替え可能。
彼は言葉の定義が暴力的なので誤解されがちですが、結論として言ってることは「身近な人を大切にしようね」という至極まっとうなことです。
それでは商売にならないので、言葉の定義をあえて暴力化しているのでしょう。
その意味においては、彼自身がクズとも言えますw
日米開戦の直後に召集された、敗戦後の日本を統治する方法を研究する米国の特命チームのリーダーは(中略)、日本兵は狂信的愛国者だと思っていたら、全く違った、という事を書いています。
捕虜になった日本兵はみんな、シャワーを浴びさせてもらい、食事と寝床を与えられると、翌日から機密事項をべらべらとしゃべり始める。
狂信的な愛国者は、一人としていなかった。
彼女はそこに、日本独特の「罪の文化」ならぬ「恥の文化」を見出したわけです。
要は、周囲の視線を気にして愛国ブリッコしていただけ。
三島は教養人だから、彼女のこうした分析を熟知しています。
そんな三島にとって大切なことは、損得勘定の「自発性」を超える、内から湧く力である「内発性」ゆえに国に貢献するものを育てることです。
宮台真司著「社会という荒野を生きる」より引用
三島は、戦後一夜にして「愛国天皇主義者」から「自由民主主義者」へと豹変した日本人を嫌悪していました。
いわゆる「一番病」「優等生病」ですね。
周囲の空気が「愛国」の場合は
はいは~い!僕が一番の愛国者です!
SDGsが空気になれば…
お、SDGsがきそうだな!は~い!自分のことだけ考えてちゃいけないと思いま~す!
SNSの普及により、「第一印象」が重視されるようになると…
お、いい人にならないと「いいね」がもらえないぞ。は~い!人の悪口は言っちゃいけないと思いま~す!
こんな感じですね。
要は「公(パブリック)」の概念が存在せず、所属集団内のポジショニングにしか興味がない「入れ替え可能な」人間ということです。
筆者など、米国株投資(システムへのタダ乗り)をやってる時点で「クズ中のクズ」ですねw
三島は、日本人のどうしようもない「からっぽ」さを埋めるには、絶対的参照点としての「天皇」の物語が必要だと考えたわけです。
しかし、筆者は次の3点から不可能だと考えます。
①天皇の物語は「人間天皇」と国民の手によって破壊されている。
②天皇の物語は農耕・アニミズムと一体であり、テクノロジー(経済成長)と矛盾する。
③そもそも、天皇の物語が生きていた時代から日本人はクズ(いい人)だった。
順にお話しします。
天皇はもはや物語の主人公たり得ない
天皇の物語は「人間天皇」と国民の手によって破壊されている。
現人神とは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定したのです。
熱烈な天皇主義者である三島は、この「人間天皇」を徹底して嫌いました。
・彼にはエロティシズムを感じない。あんな老人のために死ぬわけにはいかない。
三田明(当時の人気俳優)が天皇だったら、いつでも死ねる。
・腹を切る前に、宮城(皇居)で天皇を殺したい。
・(生物学を研究する天皇について)やるべきじゃないよ、あんなものは。
なかなか、過激ですねw
また自らの著書「英霊の声」において、2.26で殺された青年将校と特攻隊員の霊に
「などてすめろぎはひととなりたまひし(天皇はなぜ人間になってしまわれたのか)」という呪詛を語らせています。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを陛下は二度とも逸したまうた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
三島由紀夫著「英霊の声」より引用
三島自身もこう書くように、天皇自身の手で、もはや物語は破壊されているのです。
また、日本国民自身の手によっても、天皇の神性は破壊されました。
「親しみやすい天皇」をマスコミが報じ、国民もそれを喝采する。
いわゆる「週刊誌的天皇制」です。
「親しみやすいから」価値がある、「国民目線だから」価値がある。
絶対的存在を相対化してしまったのです。
マッカーサーが天皇のことを「日本最上の紳士」と評したのも、アメリカの巧妙な罠だったようにさえ感じます。
人間として評価される時点で、もはや相対的存在に成り下がっているのですから。
天皇の物語は農耕・アニミズムと一体であり、テクノロジー(経済成長)と矛盾する
日本人は農耕民族です。
自然によって生かされているという意識を強く持ち、自然を神として崇めました。
そして、これらの自然神を祭る存在が天皇です。
特攻隊員が何を思って死んでいったか。
故郷の兎(うさぎ)おひしあの山、小鮒つりしあの川
皆懐しい想出ばかりです。然(しか)し郷土の父母上様にお別れするにあたりもっと親孝行がしたかった。そればかりが残念です。
彼らの遺書を見ると、「故郷の自然」「故郷の人々」「両親」「兄弟」といったキーワードで抽象化できます。
これらの最上位の抽象概念が「天皇」というわけです。
天皇が存在するための土台が、壊れているのです。
それでも高度成長の中、かろうじて残ったのが「会社」という共同体でした。
人々は「会社」を「失われた故郷の共同体」に見立て、懸命に働いた。
「共同体を守る」ために働き、それが「経済成長」とも両立しえた、幸運な時代でした。
筆者の住む地域が「古き良き地域共同体」の体裁をかろうじて保ってこれたのも、「アイシン」「村田製作所」といった大量生産大量消費を前提とした雇用があったからです。
これを失えば、人々はその地域に住む根拠を失います。
人々は遊牧民化し、地域共同体は完全に破壊されましょう。
このような時代にあって、天皇の物語は成り立ちえません。
そもそも、天皇の物語が生きていた時代から日本人はクズ(いい人)だった
これは今さら述べることではありませんね。
2.26の青年将校に対する軍部の対応にせよ、日米開戦・終戦時にせよ、徹頭徹尾、(組織人としての)日本人はクズ(いい人)でした。
物語は、一人ひとりが作るしかない
ちなみに、クズ、クズと連呼していますが、これは影の側面から見ているからにすぎません。
逆に「だからこそ日本人は素晴らしいんだ。ここまで発展できたんだ」という事も容易にできます。
自分好みの物語をセレクトしましょう。
自ら物語を紡げるのならば、それがベストです。
ちなみに【前編】の記事における2.26事件の描写も、可能な限り青年将校に同情的な物語にしてあります。
・ファクトの選択
・ファクトの解釈
・接続詞の付け方
この3つの使いようで、全く違う物語を紡ぐことが出来ます。
嘘をつくことなしに、青年将校側を極悪非道に描くことだってできる。
物事など、どうとでも言えるという事です。
相対主義ですね。
そして、三島はこれを否定したわけです。
そうならないためには、絶対的参照点が必要だと。
例えば株式投資ならば「株価」という絶対的参照点がある。
これによって、物語には最終的に価値の順列が完成する。
現実社会においても、このような絶対的参照点が、それも「生命」や「経済」を超えた価値が必要だと考えた。
それを、観念としての天皇に求めた訳です。
しかし、繰り返しますが、もう不可能でしょう。
現代において成り立ち得るのは、せいぜい「家族の物語」です。
「家族を守るために命を投げ出す」
ここまでならば、成り立ち得る。
極めてミクロな範囲の中で、身体的具体的に生きていく。
その範囲で物語を紡ぐしかない。
筆者はそう考えます。
それでも物語の持ちうる力
さて、3回に亘って記事にしてきた2.26事件ですが、いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけましたでしょうか。
では最後に、2.26事件の首謀者である磯部浅一の紹介をしたいと思います。
彼は三島と同じく、熱烈な天皇主義者でした。
信じていた天皇に裏切られ、獄中で天を呪い、国を呪い、最期の時も天皇陛下万歳を口にせず、呪詛の中で果てていった青年将校です。
何をっ! 殺されて堪るか。
ラセツとなって敵類賊カイを滅尽するのだ、余は祈りが日々に激しくなりつつある、余の祈りは成仏しない祈りだ、悪鬼になれるように祈っているのだ、優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ、必ず志をつらぬいて見せる、余の所信は一分も一厘もまげないぞ、完全に無敵に貫徹するのだ、
死ぬものか。
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ。
死ぬる事は負ける事だ。
成仏する事は譲歩する事だ。
死ぬものか、成仏するものか。
悪鬼となって所信を貫徹するのだ。
妥協も譲歩もしないぞ。
天皇陛下 何と云ふ御失政で在りますか
何と云ふザマです、皇祖皇宗に御謝りなされませ
余は死にたくない、
もう一度出てやり直したい、
三宅坂の陸軍省のある場所の台上を
三十分自由にさしてくれたら、
軍幕僚を皆殺しにしてみせる、
死にたくない、仇が討ちたい、
全幕僚を虐殺して復讐したい
日本の神々はどれもこれも皆ねむっておられるのですか、
この日本の大事をよそ忙しているほどのなまけものなら日本の神様ではない、
磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る、
そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追いはらってしまうのだ、
よくよく菱海の言うことを胸にきぎんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ。
陛下 われわれ同志ほど、国を思い陛下のことをおもう者は
日本国中どこをさがしても決しておりません、
その忠義者をなぜいじめるのでありますか、
朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません、
仮りにも十五名の将校を銃殺するのです、殺すのであります、
陛下の赤子を殺すのでありますぞ
磯部浅一著「獄中日記」より引用
三島が「英霊の声」を記したとき
三島が市谷駐屯地で割腹したとき
彼には、この磯部の霊が憑依していたといいます。
少なくとも、三島自身はそう信じていた。
物語が持つ力です。
恐ろしさです。