こんばんは!サイコパスの郵便屋さんです。
前回の記事で、加速主義についてお話しました。
民主制国家、政治的道徳が足かせとなり、テクノロジーの発展が阻害されている。
既得権だの、規制だのに縛られて、何も決められない、何も進めねぇじゃん。
民主主義も道徳も国家も、テクノロジーを加速させてぶっ壊しちまえ。
我々優秀なテクノロジストが、無能な大衆に代わって合理的に世界を統治する。
ものすごくザックリ言うと、こんな感じのイデオロギーですw
筆者はこれを初めて知った時、妙な既視感を覚えました。
そう、1930年代における社会主義への憧憬です。
今日は、そのお話です。
1930年代、民主主義・資本主義への失望&社会主義への憧憬
1929年10月のNY株式市場暴落に端を発した大恐慌は、瞬く間に世界を飲み込みました。
コーヒーは船の燃料に燃やしちまえ。
玉蜀黍は暖房に使っちまえ。
とてもあつい火がたけるぞ。
ジャガイモは河に捨てちまえ。
そして腹の減ったやつらが、それをすくいにこないように、堤に番人を立てろ。
豚は殺して埋めちまえ。
そうすれば腐った膿は土にしみこんでしまうだろう。
告発してもなお足りない犯罪が、ここではおこなわれている。泣くことでは表現できない悲しみが、ここにはある。我々のすべての成功をふいにする失敗がある。肥沃な土地、まっすぐな木々の列、がっしりした幹、熟した果実。そしてプラグラ病にかかった子どもは死ぬよりほかに道はない。なぜならオレンジからは収益が上がらないからだ。検死官は、死亡証明書に、こう書きこむにちがいない。ー栄養失調により死亡ーそれというのも、食料は腐らせねばならぬからだ。むりにでも腐らせねばならぬからだ。(中略)
腹の減った人たちの目には湧きあがる怒りがある。人々の魂の中に怒りの葡萄が実りはじめ、それがしだいに大きくなっていくー収穫のときを待ちつつ、それはしだいに大きくなっていく。
ジョン・スタインベック著「怒りの葡萄」より引用
その悲惨さを、ジョン・スタインベックは小説「怒りの葡萄」で表現しました。
第一次大戦後、「黄金の20年代」を経て、世界一豊かな国となったはずのアメリカ。
有り余る食料の山。それを横目に、栄養失調で死んでいく人々。
美味しそうなオレンジの山、多くの命を救えたはずのその山には、石油がかけられていました。
価格の崩壊を防ぐため、それを必要とする人々がいるにもかかわらず、多くの食料は投棄されたのです。
市場経済の、影の側面です。
社会主義への憧れが、ファシズムを生んだ
しかし、それを尻目に、破竹の勢いで成長を続ける国がありました。
ソビエト連邦です。
Try itより引用
スターリンの強力な独裁の下、あらゆるリソースを重工業へと集中配分し、飛躍的な成長を遂げたのです。
特に28年から始まった第一次五か年計画は、世界初の「国家による計画的経済運営」として世界中から注目と称賛を集めました。
アメリカにおけるニューディール計画、日本における満州国運営や国家総動員法制定、更には戦後の傾斜生産方式等は、この影響を強く受けています。
日本が大恐慌から比較的早く立ち直っているのも、高橋是清による大規模なデフレ対策によるものです。
国債の日銀引受、円安誘導、農村への大規模な公共支出(時局匡救事業)等ですね。
ここにも社会主義の影響があります。
ー「生ぬるい自由と民主主義」「腐敗した資本主義」は、もう時代遅れだ。
これからは「強力な独裁と国家統制」の時代だー
社会主義の躍進を背景に、このような声が高まり、ドイツやイタリアでは「ファシズム」として政権を奪取するまでに至りました。
ベニト・ムッソリーニは、元々はイタリア社会党の活動家です。
アドルフ・ヒトラー率いるナチスも「国家社会主義ドイツ労働者党」が正式名称です。
日本においても、マルクス主義の影響を受けた「革新官僚」がイニシアチブを取り、国家総動員法制定に至りました。
「独裁と計画経済」は「目指すべき方向性がはっきりしている場合」には無類の強さを発揮するのです。
当然ですよね。
強大な権力でもって、持てるリソースの全てを投入できるのですから。
遊び、スポーツ、友達付き合い等にも時間を使う生徒。
予備校で缶詰になって、一心不乱に勉強に打ち込む生徒。
目指すべき方向が「偏差値」ならば、後者が有利なのは当たり前です。
ソ連は、目指すべき方向を重工業=軍事力と定め、極めて短期間のうちに世界有数の工業軍事大国へと発展したのです。
その代償として軽工業=国民生活は犠牲にされ、農業集団化によって夥しい犠牲者を出すのですが。。
加速主義は、現代のファシズムである
さて、ここまでお話しすると、勘のいい方は気付きましたよね。
そう、現代と時代背景がそっくりなのです。
・資本主義限界論
・長期停滞論
・強力な独裁を背景にテクノロジー産業へとリソースを集中させ、躍進する中国
こういった状況を背景に、「生ぬるい民主主義を破壊し、テクノロジーの発展を加速させよ」という加速主義が生まれている。
当時の「ソ連」が今の「中国」、当時の「ファシズム」が「加速主義」です。
さて、これを踏まえたうえで、筆者は加速主義をどう考えるか。
はい、やはり筆者は加速主義に期待します。
テクノロジーの加速的発展が、世界をリセットすることを期待します。
現代の豊かさがあるのも、ある意味「ファシズム」という加速主義が世界をリセットしたからです。
当時の格差の凄まじさは、現代の比ではありません。
国家間においては、「植民地を持てる国」と「持たざる国」の格差。
国内においては「財閥」「寄生地主」と「貧しい小作農」の格差。
これは「民主主義」と「国際協調」などでは、到底解消できなかったでしょう。
日本が「自力での革命」に最も近づいた2月26日も、あのような結末になったのです。
つまり、ファシズムが世界を破壊しなければ、我々ははるかに貧しい生活を送っているはず。
ここでもう一度、スタインベックの「怒りの葡萄」を見てください。
程度の差こそあれ、同じような矛盾は現代においても堆積しています。
あなたは、どう思われますか?
そして、あなたは、何を選択しますか?