障がい者は、なぜ殺してはならないのか

いつも心にサイコパスを★

こんばんは、サイコパスの郵便屋さんです。

 

物騒なタイトルにぎょっとされた方も多いと思います。

驚かせてすいませんm(__)m

 

みなさん、2016年に相模原市知的障害者施設「やまゆり園」で起きた大量殺傷事件を覚えていますか?

 

「意思疎通のとれない障害者は安楽死させるべきだ」

「重度・重複障害者を養うには莫大なお金と時間が奪われる」

という思想のもとに、実に19人を殺害した事件です。

 

深夜、やまゆり園に侵入した犯人は、職員を結束バンドで拘束。

身動きの取れない職員を連れまわしながら、入所者一人ひとりについて

「こいつは、しゃべれるか。しゃべれないか」

と質問しつつ、刃物を振り下ろしていったといいます。

 

世界中に衝撃を与え、ホワイトハウスからも「障害者施設で事件が起きたことに強い嫌悪感を感じる」との声明が発表。

 

しかし一方で、石原慎太郎氏は「ある意味で理解できる」と述べる等、物議を醸しました。

 

さて、この事件。

みなさん、どう思われましたか?

ナチスの優生思想そのものじゃん。あぶねえ奴!

 

そう思われると思います。

 

しかし、この犯人と同じ思想を持ち、行動していた巨大組織がつい最近まで存在していたんです。

 

とんでもない組織ですよね。

一体どこの危険団体でしょうか。

 

優生保護法を知っていますか

答えは、日本政府です。

 

www.fnn.jp

1948年、不良な子孫の出生を防止する」ことを目的として、優生保護法が成立しました。

 

障害児、成人した精神障害者知的障害者には、本人の同意が無くても強制不妊手術を認めるとした法律です。

 

「優生」とは良質の遺伝形質を保つようにすること。

つまり、「良い遺伝子」を守るために、「悪い遺伝子」は根絶すべし、という法律です。

 

この法律は、1996年まで存続していました。

96年と言ったら、筆者が高校生の時です。

つい最近まで、このような法律が存続していたのです。

 

信じられませんよね。

 

今日は、この「なぜ障がい者は殺してはいけないのか」を考えていきます。

癌はなぜ、抗がん剤で根絶できないか

急に話が変わって申し訳ない。

アナロジー(事象と事象の「似ている要素」を抽出して応用すること)です。

 

みなさん、癌は怖い病気だと認識されていると思います。

なぜ怖いか。

それは、いったん転移してしまうと、抗がん剤で根絶することがほぼ不可能だからです。

 

しかし、抗がん剤で根絶できる可能性のあるがんが、わずかながら存在します。

その一つが「白血病」です。

 

白血病とは、白血球の遺伝子に異常が生じて「芽球」とよばれる未分化細胞(白血球としての働きをしない赤ちゃん細胞)が異常増殖。

これにより、正常な造血機能が損なわれ、死に至る病です。

 

中でも「急性白血病」は極めて悪性度が高く(増殖速度が速く)、発症から数週間で死に至ることもあるくらいです。

 

しかし、この恐ろしい白血病にも弱点があります。

それは、抗がん剤に極めて弱いことです。

 

理由は諸説ありますが、そのひとつに

「最初の白血病細胞が誕生してから発病までが速いため、多様性がない

ということがあります。

 

通常の固形癌は、数十年という長い年月を掛けて、少しずつ遺伝子異常を積み重ねて発症します。

 

この長い年月の間に、様々な細胞が、様々な箇所に遺伝子異常を重ねる。

つまり、ここで多様性を獲得するわけです。

 

つまり、癌とは、コロナでいうと「アルファ株」「デルタ株」「オミクロン株」等々、あらゆる変異株(数百数千)に同時に感染したようなものなのです

 

ある種類の抗がん剤を入れても、必ずそれに耐性をもつ癌細胞が生き残り、再増殖する。

また別の抗がん剤を入れても、また別の種類の癌細胞が生き残る。

 

最終的には、あらゆる抗がん剤に耐性を持った細胞が「適者生存」により生き残り、増殖していく。

 

急性白血病は、あまりにも「強すぎる(増殖速度が速すぎる)」ために、「多様性」がない。

 

従って、数種類の抗がん剤で「根絶」され得る、ということですね。

 

多様性の尊重

では、ここで「障がい者はなぜ殺してはいけないか」に戻ります。

「かわいそうだから」ではありませんよ。

筆者はそういう「道徳的」な思想は大嫌いです。

 

もうお分かりですね。

人類の多様性を守るためです。

 

ダーウィン「適者生存(自然選択)説」は、「弱肉強食」の理論だと曲解され、優性思想の根拠にされてしまうことがあります。

 

強いものが生き残る。弱いものは滅びよ。

こんな感じですね。

 

しかし、実際の適者生存説は全く違います。

たまたま偶然、環境に適応していた者が生き残る

です。

 

強いものが生き残るんではない。環境に適応したものが生き残るんだ。環境に応じて、自分も変わっていかねば。

こういう考えも多いですが、違います。

 

たまたま、なのです。

 

人間の「能力」「強さ」なんてものは、相対的なものです。

環境が変われば「能力」「強味」は容易に「弱み」へと変わります。

 

認知バイアス」は、その最たるものでしょう。

狩猟採集時代には、人類が生き残るための武器として機能していた「才能」が、近代においては「人間最大の弱点」として機能してしまっている。

 

いま、障がい者と呼ばれている人々が「勝ち残る」未来だって充分ありうるのです。

 

例えば「寝たきり」の障がい者は、別の角度から見ると「あらゆるリソースを思考に集中している状態」とも言えます。

テクノロジーの力で、これが解放される日が来るかもしれない。

 

人間の浅はかな知恵で、なにをもって「良い」とみなすか「悪い」とみなすか、

そのような判断はするべきではないのです。

 

「人間の理性でもって、社会を上手く作り替えていけるはずだ」という思想を

設計主義(byハイエクといいます。

 

計画経済が、その最たる例です。

 

その顛末がどうなったかは、みなさんご存じでしょう。

 

ハイエクが何よりも嫌ったのは、社会全体を思うままに設計できるとする知の驕りでした。

 

優生思想も設計主義そのものです。

 

何が「良く」何が「悪い」か。

何が「強く」何が「弱い」か。

何が「能力」で何が「欠点」か。

 

それは、すべて、その時々の環境が決めることです。

人間が「設計」することではありません。

 

だからこその「多様性」の尊重なのです。

だからこその「自由」の尊重なのです。